第十話 男はんは、あてらの敵や

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 女の映画と男の映画という区別がある。男の映画とは、例えば『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス、1959)であり、『スペース・カウボーイ』(クリント・イーストウッド、2000)である。 では、これに対し、女の映画とはどのようなものを指すのであろうか。恋愛ものは本来、男と女の映画である。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、1965)は男と女の映画である。 また、恋愛ものの中には見方によって女の映画にも男の映画にもなるものがある。スクリューボールがそれで、『赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス、1939)はケーリー・グラントの映画でも、 キャサリン・ヘップバーンの映画でもありうる。ところが、女の映画でしかないような映画となると、なかなか難しい。『スペース・カウボーイ』が男の映画でしかなかったのと同じ意味で、女の映画でしかないような映画が存在するであろうか。 溝口健二の作品は、まさにこの意味において女の映画である。しかもこわれゆく女の映画ばかりである。女の映画は必然的にこわれゆく女の映画としてしか成立しないのであろうか。 おそらく、われわれの社会制度の中ではある種の必然であろう。溝口健二はそう考えていたように思われる。『祇園の姉妹』(1936)のラスト・シーンで、 山田五十鈴は「男はんちゅう男はんはみんなあてらの仇、憎い憎い敵や」と絶叫していた。脚本は依田義賢である。


祇園の姉妹

監督:溝口健二
キャスト:山田五十鈴【芸妓:おもちゃ】
     梅村蓉子【芸妓:梅吉】
1936年/日本/69分

古風な人情家の姉・梅吉と現代的打算的な妹・おもちゃは、京都の色町で働く芸妓姉妹であるが、ともに男にもてあそばれ、その犠牲になってゆく。 本来は90分以上の作品であるが、一部のフィルムが失われており、現在見ることの出来るバージョンは69分である。1956年に野村浩将監督、木暮実千代主演でリメイクされた。


第九話 マイルス・デイヴィスのエレベーター

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン、1979)は日本でも大ヒットした映画である。公開当時、私は三回続けて見に行った憶えがある。いつ行っても満員だった。 ファースト・カットはメリル・ストリープのクローズ・アップで、それがベッドで寝ている男の子のカットにつながる。母親が子供を寝かしつけているシーンであることが分かる。 ただ、このカットのつなぎはちょっと変わっている。まるでフランス映画のようである。ロバート・ベントンは、フランソワ・トリュフォーが『野生の少年』(1970)で使ったヴィヴァルディの音楽をそのまま使っていたが、 ようするにこの映画はアメリカ人の監督がアメリカ人のスタッフで撮ったフランス映画なのだ。 撮影監督だけはスペイン出身のネストール・アルメンドロスだったが、 アルメンドロスは『野生の少年』の撮影監督である。メリル・ストリープのクローズ・アップは彼女がこわれゆく女であることを暗示していた。クローズ・アップには潜在的な崩壊を表現する効果がある。 その証拠に、ジャンヌ・モローでさえクローズ・アップされると崩壊の兆しが現れる。『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル、1957)のファースト・カットはジャンヌ・モローのクローズ・アップである。 こういうふうに撮られたら女はもはやこわれてゆくほかない。撮影監督はアンリ・ドカエ。音楽はマイルス・デイヴィス。マイルスのトランペットは崩壊のメロディだった。


死刑台のエレベーター Ascenseur pour L'Echafaud

監督:ルイ・マル
キャスト:ジャンヌ・モロー【フロランス・カララ】
     モーリス・ロネ 【ジュリアン・タベルニエ】
1957年/フランス/92分

青年医師ジュリアンは、社長夫人フロランスと密会を重ねていた。二人は邪魔者となった社長を殺害する。 完全犯罪のはずが、ささやかなミスから歯車が狂いだす…。 25歳のルイ・マルが撮ったヌーベルバーグの草分け的作品。ジャズの帝王マイルス・デイヴィスが音楽を担当、印象的なトランペットを聞かせている。


第八話 YOU ONLY LIVE ONCE

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ハリウッドはつねにハリウッド自身の物語を語ってきた。語られるのは栄光の日々だけではない。むしろ悲惨な物語もある。ビリー・ワイルダーの傑作『悲愁』(1979)もそのひとつであろう。 ガルボをモデルにしたことが明らかな、すでに引退した往年の大女優が自殺する。その自殺の真相をウィリアム・ホールデン演じるプロデューサーが探るというミステリー仕立てになっている。 まるで、『サンセット大通り』で銃弾に倒れた若き脚本家がじつは生き延びて、またしても往年の大女優をめぐるトラブルに巻き込まれていく物語を想像してしまう。この映画には、アカデミー協会会長の役でヘンリー・フォンダがワンシーンだけ出演していた。 ヘンリー・フォンダといえば、ミスタア・ロバーツのような明るい役が思い浮かぶ。しかし、じつは暗い役が見事に当たる役者である。ヒッチコックの『間違えられた男』(1956)がそうだ。ジョン・フォードの『怒りの葡萄』(1940)もある。 しかし極めつけはフリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』(1937)であろう。前科者がついに更生できず人生につまずくという点では『怒りの葡萄』のトム・ジョードにつながる役ともいえる。 これらの監督達はヘンリー・フォンダの暗さを的確に見抜いていたに違いない。『暗黒街の弾痕』の原題はYOU ONLY LIVE ONCE. 人生は二度生きられない。だからつまずきは怖いのだ。


暗黒街の弾痕 YOU ONLY LIVE ONCE

監督:フリッツ・ラング
キャスト:ヘンリー・フォンダ【エディ・テイラー】
     シルヴィア・シドニー 【ジョアン・グラハム】
1937年/アメリカ/86分

恋人ジョアンの尽力で、短期で出所しトラック運転手の職に就いたエディは、簡単な式を挙げ、新婚旅行に出かけるが、行く先々で様々な犯罪に巻き込まれその犯人に仕立てられてしまう…。霧や独房での光と影の表現、 S・シドニーのうるんだ瞳がわずかに喜びに震える瞬間の至福感、謎めいた銀行襲撃場面のスリル……。どこをとっても素晴らしい、ラング、アメリカ時代の最高傑作。


第七話 ウォルター・ヒューストンの雨

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1930年代といえば、映画史においては世界的な規模でトーキーへの移行が行われた時期である。じつは、この出来事は映画史研究の謎になっている。先立つ1920年代は映画の真の黄金時代であった。 ハリウッド・スターの豪華な生活というイメージはこの時代のものである。サイレント映画は儲かって仕方がなかったのである。これに対し、 トーキーへの移行は映画館の設備等に膨大な投資を必要とするものであった。つまり、トーキーに切り替える必要は、興行的にはまったくなかった。なのに、トーキーへの移行は行われた。 この出来事に必然性を読み取ることは難しい。それゆえ、映画史研究の謎なのである。この出来事は技術的な水準での変革をももたらした。全く新しいカットが、ジョン・フォードやラウール・ウォルシュのような監督達によって創造されていった。 サマセット・モーム原作の『雨』(ルイス・マイルストン、1932)で、サディ・トンプソン(ジョーン・クロフォード)が登場するファースト・カットは脚である。ジョーン・クロフォードの脚だけ撮ったのである。 こういうカットはサイレントではありえない。また、ウォルター・ヒューストンの神父がジョーン・クロフォードの肉体的な魅力に敗北するカットは、 いっけんサイレントのようだが角度をつけて撮っていて、やはりトーキー固有のものである。女につまずく男の視覚表現も変わってきたのである。




監督:ルイス・マイルストン
キャスト:ジョーン・クロフォード【娼婦サディ】
     ウォルター・ヒューストン 【神父デビッドソン】
1932年/アメリカ/76分

雨が降り続く南太平洋の孤島に肉感的な娼婦・サディがやって来る。色めき立つ男たちをよそに、島の宣教師は更正を説くのだが、狂おしい太鼓のリズムと雨に心をかき乱され、 デビッドソンも他の男と同様、獣となってしまう。MGM専属時代のクロフォードにとっては数少ない他社出演でもあった。


第六話 イエリ・オッジ・ドマーニ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 私が勤務している鹿児島大学の正面にア・ドマーニという名前の本格的なリストランテがある。この店のランチはプラス260円でドルチェを付けることができる。私は一時期、このドルチェが食べたくて 週に一度はこの店に通っていたことがある。ア・ドマーニとは「また明日」というイタリア語の挨拶である。 ついでにいえば、ドマーニが明日で、昨日がイエリ、今日はオッジである。したがって、 イエリ・オッジ・ドマーニ(ieri, oggi, domani)で『昨日・今日・明日』(ヴィットリオ・デ=シーカ、1963)である。 いかにもイタリア映画らしいイタリア映画だった。 この映画はソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの共演だが、この二人の共演で同じデ=シーカ監督の『あゝ結婚』(1964)とこの作品は、私の記憶の中ではつねにこんがらがってしまう。 夫婦の話を同じ役者、同じ監督で撮っているのだから、こんがらがって当然かもしれない。 特にこの男女のタイプが似ている。こわれそうでこわれない女と、つまずきそうでつまずかない男なのだ。 イタリア映画らしいイタリア映画とは、そういう男女の物語を指している。私の好みとしても、マストロヤンニのような善良な色男につまずいてほしくない。 イエリ・オッジ・ドマーニ、イエリ・オッジ・ドマーニ。初級イタリア語の教科書ではない。決して忘れてはいけないイタリア映画のタイトルである。


昨日・今日・明日

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
キャスト:ソフィア・ローレン【アデリーナ/アンナ/マーラ】
     マルチェロ・マストロヤンニ 【カルミーネ/レンゾ/ルスコーニ】
1963年/イタリア/119分

イタリアの3つの都市、ナポリ、ミラノ、ローマを舞台に、その街で生きる男女の恋愛模様を3話のオムニバス形式で描いた喜劇。 3話のエピソードともローレンとマストロヤンニが主役カップルを三様に演じ分けながら大いに楽しませてくれる。1964年度アカデミー外国語映画賞を受賞した。


第五話 イタリア映画のような…

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 初期の増村保造の作品にはどこかイタリア映画のような雰囲気がある。 誰の視点から見ているのかが不明な風景のカット、人気のない街路に立つ女、近代的なマンションの一室での会話…。 これはロッセリーニで見た、あれはアントニオーニで見た、ということがときおりある。増村の「こわれゆく女」といえば『妻は告白する』(1961)であろうか。 登山の途中で夫のザイルを切ったことが不可抗力か故意の殺人かを争点にした裁判の被告となった妻(若尾文子)は、公判を重ねる中でこわれていく。 若尾文子のような女がこわれていく、というのが私は何より好きである。 しかし、映画的に重要な点は、女がこわれていくことを視覚的にどう示すかである。 構図/逆構図の使用法にその監督の真の個性が出る、というのは私の持論だが、増村についていえば、多数の人間の視線が一点に集中するカットを切り返し、 視線の対象である人物のカットにつなぐことによる感情的なショックこそ持ち味であろう。 豪雨の日に、裁判の取材で親しくなった若い記者(川口浩)を若尾文子が訪ねてくるシーンがある。 編集室の記者たちの驚愕した眼差しのカットが切り返され、入口に立つ若尾文子のカットがくる。 豪雨の日の外出に和服を着、その和服が上から下までずぶぬれになった恰好で川口浩をただ見つめている。 愕然とするカットである。こわれゆく女をよく描いたアントニオーニにもこういうカットはなかった。


妻は告白する

監督:増村保造
キャスト:若尾文子【滝川彩子】
     川口浩 【幸田修】
1961年/日本/91分

増村保造監督、若尾文子コンビによる愛の物語で、昭和36年芸術祭参加作品。法廷中心の「法廷ミステリ」のように見えるが、ミステリ色は薄い。 ひたすら、若尾文子演ずる、不幸な結婚をした女の心理にスポットが当てられており、犯行動機の背後に潜むひた向きな愛が浮き彫りになって行く様が描かれている。


第四話 フロール・エン・ラ・ソンブラ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画の中の人物が映画を見るシーンというのがある。『男と女のいる舗道』(ジャン=リュック・ゴダール、1962)で、 アンナ・カリーナが『裁かるゝジャンヌ』(カール・ドライエル、1928)を見て涙するシーンは有名である。 こういう場合、すでに存在する別の映画を映画の中で見るのが普通だが、 映画の中で見る映画をそのワンシーンだけ自分で撮ってしまったのはヴィクトル・エリセである。『エル・スール』(1982)には、 主演のオメロ・アントヌッチが映画を見るシーンがあるが、そのとき上映されている映画がそうなのである。 その映画にはポスターまであって、映画館に貼ってある。タイトルは、FLOR EN LA SOMBRA(日陰の花)。 主演はイレーネ・リオス(オーロール・クレマン)。楽屋で出番を待っている女を不意にかつての情夫が訪ねてくる。 俺は狂っている、だからお前を愛した、というような台詞を吐いてこの女を拳銃で撃つ、というシーンである。 女によって人生につまずいた男の物語だ。それによって女は死ぬ。この映画を見た後で、オメロ・アントヌッチはオーロール・クレマンに手紙を書く。 ここに秘密めいた過去が暗示される。そしてそれを娘に気づかれたことが、この父親の死を呼びこんでいくことになる。凝った物語である。 フロール・エン・ラ・ソンブラ、日陰の花。『エル・スール』を見なければ決して見ることのできない映画である。


エル・スール EL SUR

監督:ヴィクトル・エリセ
キャスト:オメロ・アントヌッティ【父:アグスティン・アレナス】
     ソンソレス・アラングーレン/イシアル・ボリャイン 【娘:エストレリャ 8歳/15歳】
1983年/スペイン・フランス/95分

生まれ故郷アンダルシアを捨てて活きる父の、南=エル・スールへの断ちがたい想いを、 娘の目を通じて描く。冒頭、窓の外が明るんでいく光の場面、8歳のエストレリャが荒野で父と佇む場面や、カフェにいる父を窓の外から見つめる場面、15歳に成長するワンシーンの見事な切り替わりなど、 息をのむ映像の美しさで物語が展開する。


第三話 テキサス州パリ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 サイレント作品『散り行く花』(D.W.グリフィス、1919)から最新作『ヒア・アフター』(クリント・イーストウッド、2011)にいたるまで、 「こわれゆく女」と「つまずいた男」は、ほとんど1世紀にわたって映画に物語を提供してきた。 これらの女と男が出会ってしまうことが物語そのものを作り上げるのである。この物語にはいくつかのヴァリエーションがある。 中でも、その女に出会ったこと自体がつまずきであるというパターンが最も物語にしやすく、 また本数も多いであろう。『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、1944)はこのパターンの代表作である。 この場合、男が人生につまずくわけだが、女の方には別にこわれていく必然性はない。 ところがその逆、つまり女だけがこわれていくというパターンはずっと少なくなるはずである。 男のつまずきは映画として分かりやすいが、女がこわれていく過程は曖昧で、映画として分かりにくいからであろう。 ジーナ・ローランズの『こわれゆく女』はまさにこのパターンの作品である。 では、男が曖昧につまずき、かつ女もこわれてゆく映画となるといったいどうなるのであろうか。 物語が成立するのであろうか。『パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース、1984)はそのような難しいテーマを扱った作品である。 パリ、テキサスすなわちテキサス州パリ。米国テキサス州には本当にその名の土地がある。


パリ、テキサス PARIS,TEXAS

監督:ヴィム・ヴェンダース
キャスト:ハリー・ディーン・スタントン【トラヴィス・ヘンダースン】
     ハンター・カーソン【ハンター・ヘンダースン】
1984年/西独・仏/147分

1984年製作、ヴィム・ヴェンダース監督の西ドイツ・フランス合作映画。ヴェンダースの代表作のひとつであり、 テキサスを一人放浪していた男の妻子との再会と別れを描いたロードムービーの金字塔である。 第37回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。原作は脚本のサム・シェパードによるエッセイ『モーテル・クロニクルズ』。


第二話 グロリアという名の女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

  最近はそうでもないが、かつては映画スターが芸名を使うのはごく普通のことだった。 いうまでもなく、ジョン・ウェインは本名ではない。このところ再評価への動きが出てきたジョン・ガーフィールドも本名ではなかった。 ちなみに、わが高倉健さんも本名ではない。ウィリアム・ウェルマン会心の作『スタア誕生』(1937)には、 新人女優(ジャネット・ゲイナー)の芸名を宣伝部長が思いつくシーンがちゃんと用意されていた。 ついた名前はヴィッキー・レスターで、どう見ても芸名である。スターにとって名前が重要とみなされていた映画史的な証言である。 ところで、私の大好きなジーナ・ローランズ主演の『グロリア』(ジョン・カサヴェテス、1980)には、名前に関する映画史的な遊びがある。 イタリア系のマフィアとつきあいのあるこの独身女のフルネームが、グロリア・スヴェンソンだというのである。 グロリア・スワンソンのスワンソンをちょっと北欧風に変えただけだが、これでこの名前が偽名であるということが観客には分かる。 つまり、そういう素性の女という設定である。ジーナ・ローランズは一時期「こわれゆく女」ばかり演じていたことがある。 『フェイシズ』(ジョン・カサヴェテス、1968)も、『オープニング・ナイト』(同監督、1978)も、 そして『こわれゆく女』(同監督、1974)もそうである。こわれゆく女達の映画史という私の着想は、もちろんこの作品から来ている。


グロリア Gloria

監督:ジョン・カサヴェテス
キャスト:ジーナ・ローランズ【グロリア・スヴェンソン】
     ジョン・アダムズ【フィル・ドーン】
1980年/アメリカ/123分

マフィアを裏切ったために殺されたプエルトリコ人一家。 唯一の生き残りであった末っ子のフィルは、父親によって同じアパートメントの同じフロアに住む中年女グロリアに託された。 子供嫌いのグロリアと生意気なフィルは反発しあっていたが、マフィアから逃げ回るうち、いつしか絆が生まれてゆく。 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。


第一話 ノーマ・デズモンドの威光

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画史を論じる視点についてあれこれ思案しているうちに、はたと気づいたことがある。
サイレント時代から今日まで、映画に繰返し登場する人物の造形に「こわれゆく女」と「つまずいた男」が非常に多いという点である。 自分が見た映画も見ていない映画も含めて、さっそく映画史をたどってみると、こういう女達、男達がいくらでも出てくるので驚いてしまった。 そこで、この点が映画にとって何を意味するかを具体的に考えてみることにした。 映画とはようするに女と男がいかに出会うかなのだから、この企画には見込みがありそうである。 思い通りにならない現実の中でこわれていく女達、些細なきっかけで人生につまずいた男達、 映画の物語を展開させる上では恰好の素材であろう。ひとつの物語の中でこれらの女と男が出会うという物語はよくある。 『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー、1950)では、 サイレント時代の大女優ノーマ・デズモンドがビヴァリー・ヒルズの朽ち果てた豪邸で決してやってこないカムバックの機会を夢見ている。 そこへ売れない脚本家ジョーが迷い込んでくる。 若きウィリアム・ホールデンが、最後には銃弾に倒れるこのつまずいた男を演じた。 こわれゆく往年の大女優を演じたのはグロリア・スワンソンだった。 しかし、この物語にはじつはもうひとり、つまずいた男が存在していたのである。 無論、その名を無闇に口にすることのできる人物ではない。


サンセット大通り Sunset Boulevard

監督:ビリー・ワイルダー
キャスト:グロリア・スワンソン【ノーマ・デズモンド】
     ウィリアム・ホールデン【ジョー・ギリス】
1950年/アメリカ/110分

サイレント映画時代の栄光を忘れられない往年の大女優の妄執と、悲劇を描いたフィルム・ノワール。 同年のアカデミー賞11部門にノミネートされたが、『イヴの総て』相手に結局3部門での受賞に留まった。 アメリカ映画を代表する傑作であり、1989年に創立されたアメリカ国立フィルム登録簿に登録された最初の映画中の1本である。