第二十話 間違えられた男の妻

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『間違えられた男』(アルフレッド・ヒッチコック1956)は私の好きな作品のひとつである。 ところが、監督のヒッチコック本人はあまり気に入っていないらしいのである。『ヒッチコック/トリュフォー映画術』の中でそういうことをいっている。 しかし本人の意見はともかく、見どころは色々とある。まず、始まりの10分ほどがすばらしい。 高級クラブで演奏するバンドのベーシストであるヘンリー・フォンダがほとんど明け方に仕事を終えてから地下鉄を使って帰宅するまでを丁寧に見せていくカットのつなぎには非の打ち所がない。 ヘンリー・フォンダが帰宅すると、すぐさま家庭のトラブルが待ち構えている。妻のヴェラ・マイルズが歯の治療でまた金がいるというのである。 ついこの前にも家族旅行のために借金したばかりなのに。 主人(ヘンリー・フォンダ)は高給取りではない。妻も別に浪費家というわけではないが、意に反してお金が出て行ってしまう生活になっている。 どこかで歯車が狂っていて、それを修復できないがゆえに精神的な疲労がたまっている、そういう主婦である。 ヘンリー・フォンダは治療費を工面するために保険会社を訪れるが、そこで真犯人に「間違えられ」る。 ここからヴェラ・マイルズは本格的にこわれてゆくのである。この作品と同じ年にヴェラ・マイルズは『捜索者』(ジョン・フォード 1956)にも出演している。 ジェフリー・ハンターの花嫁役だが、どう見ても男を尻に敷くタイプの女である。ヴェラ・マイルズにはむしろこういう気丈な女の役が合う。 実際、ヒッチコックも『サイコ』(1960)では、失踪した妹(ジャネット・リー)の恋人(ジョン・ギャビン)を引っ張って犯人探しをする姉の役に使っている。 そう考えると、『間違えられた男』のヴェラ・マイルズには少し無理があっただろうか。ヒッチコックの不満もこの点に起因しているのかもしれない。


間違えられた男 The Wrong Man

監督: アルフレッド・ヒッチコック
キャスト:ヘンリー・フォンダ【マニー・バレストレロ】
     ヴェラ・マイルズ【ローズ・バレストレロ】
1956年/アメリカ/105分

妻の歯の治療代を工面すべく保険会社へと赴いたマニー。だが、以前そこで強盗を働いた男と彼が瓜二つだったため、窓口係が警察に通報。マニーは連行されてしまう。 1953年に実際に起きた事件の状況をそのまま踏襲して描写。大々的なNYロケを敢行し、誤認逮捕された男の悲劇をリアルに描き出した傑作。


第十九話 ビデオテープの証言

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『ブリンクス』(ウィリアム・フリードキン 1978)という作品があった。米国で1950年に実際に起こったブリンクス銀行現金強奪事件にもとづくものである。 私は小学生のときに友達と見に行ったが、まあ小学生が見ても分かる映画である。 主犯のトニー・ピノを演じたのはピーター・フォーク、『刑事コロンボ』で人気絶頂のころである。 他にはピーター・ボイルやウォレン・オーツなどが犯人グループの役で出ている。中々の顔ぶれである。 さらに、ピーター・フォークのかみさんの役で出てくるのが私の大好きなジーナ・ローランズであった。 ピーター・フォークとジーナ・ローランズはジョン・カサヴェテスの映画でこれ以前にも共演している。『こわれゆく女』(1974)と『オープニング・ナイト』(1978)が二人の共演である。 ところが、この二本にはさまれてじつはもう一本共演作がある。『刑事コロンボ』第30話「ビデオテープの証言」(1975)である。 大会社の前社長(故人)の娘がジーナ・ローランズで、これがまさにこわれゆく女であった。 娘婿のオスカー・ウェルナーが口うるさい姑(前社長夫人、妻=ジーナ・ローランズの母)を殺害するが、防犯ビデオテープを使って完璧なアリバイを作る。 コロンボがこのアリバイを崩すといういつものストーリーである。 ジーナ・ローランズは車椅子で、豪邸の階段にも専用の電動式レールが取り付けてある。 それに乗って二階の寝室に上って行く姿を下から撮ったカットがいかにも哀れである。 自分の夫が母親を殺したことを知らないのだから。例によってしつこく食い下がるコロンボに丁寧に対応する態度も何か哀れである。 最後にコロンボがアリバイを解いてみせたところで、とうとうジーナ・ローランズは車椅子に座ったまま泣き崩れる。 もう35年ほど前の作品だが、別に私は記憶力のよい方ではない。ピーター・フォーク追悼番組で最近見たばかりなのである。


刑事コロンボ/ビデオテープの証言 Columbo/Playback

監督: バーナード・L・コワルスキー
キャスト:ピーター・フォーク【刑事コロンボ】
     ジーナ・ローランズ【エリザベス・ヴァン・ウィック】
1975年/アメリカ/73分

エレクトロニクス会社の社長ハロルドは、娘婿でありながら妻が疎ましくてならない。義母マーガレットはそんなハロルドを調査、クビにする決心をするが それを知ったハロルドは、マーガレットを亡き者にしようと企む。厳重な監視システムの盲点をついた犯行に、コロンボは犯人を勘づくのだが……。


第十八話 白いスーツのラナ・ターナー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 男が人生につまずく原因は、映画においては第一に女である。男をつまずかせる女はファム・ファタールと呼ばれる。例えば『上海から来た女』(オーソン・ウェルズ 1947)のリタ・ヘイワースはそれである。 オーソン・ウェルズがリタ・ヘイワースに出会うファースト・シーンはやはり見事なものだった。この映画のリタ・ヘイワースは、自分から男に罠を仕掛けてはいない。むしろ男の方が一方的にのぼせ上がってトラブルに巻き込まれていく感じである。 このような関係は例外ではない。ファム・ファタールと呼ばれる女達は、意図的かつ計画的に男を犯罪に引きずり込む悪女ではないのだ。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット 1946)のラナ・ターナーも同様である。 かなり年上の夫に保険金をかけ、それよりも若くタフな男に殺人を持ちかけるという話だけきけばどう見ても悪女なのだが、じつはそうではない。むしろ、男への愛の証明として保険金殺人を犯してしまうというのが正しい。 黒い衣装は悪女、それに対し白い衣装は清純な女という映画の記号法から見れば、この点がもっとはっきりする。ラナ・ターナーの衣装はずっと白なのだ。つまり、ファム・ファタールとは、犯罪をとおしてしか男を愛せないこわれ行く女なのである。 では、『白いドレスの女』(ローレンス・カスダン 1981)のキャスリン・ターナーはどうであろうか。意図的かつ計画的な保険金殺人にまんまと成功してしまい、男は利用されただけである。 これではファム・ファタールにならない。それゆえ彼女が白いドレスを着ていることは、本当はおかしい。このことが意味するのは、古典的な映画の記号法がもはや機能していないということである。 そしてそれはまた、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のようなこわれゆく女の物語が、現代の観客にはもはや理解不可能なものになってしまったということを意味するのである。


郵便配達は二度ベルを鳴らす The Postman Always Rings Twice

監督: テイ・ガーネット
キャスト:ジョン・ガーフィールド【フランク・チェンバース】
     ラナ・ターナー【コーラ・スミス】
1946年/アメリカ/113分

米国カリフォルニア。流れ者のフランクはニックという男と知り合い彼のドライブインで働き始めるが、やがて彼の美しく多情な妻コーラと不倫関係に。
ふたりはニックに多額の保険金を掛け殺害する計画を練るが…。ラナ・ターナーが魅惑的な悪女を演じる、サスペンスの傑作!


第十七話 ウォルター・マソーを讃えて

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 野球映画というジャンルがある。ベースボールというものが盛んな米国と日本にのみ存在するジャンルである。少年野球などはいかにも映画向きの題材であろう。『がんばれ!ベアーズ』(マイケル・リッチー 1976)は少年野球映画の傑作である。 弱いチームがだんだん強くなって最後は決勝戦を戦うという物語である。『ペーパームーン』(ピーター・ボグダノビッチ 1973)でアカデミー賞をとったテータム・オニールが主要な子役キャストである。 このチームの監督がウォルター・マソーで、バターメーカーという変な名前である。元プロ野球選手(投手)だが、現在は自家用プールの清掃業で生計を立てる中年男。昼間から缶ビールにバーボンを混ぜて飲んでいる。 ごく些細なことで人生につまずき、以来酒が手放せなくなったというような感じである。ウォルター・マソーは、演技というよりもむしろその男本人であるように見えた。この映画の三年前にはドン・シーゲルの傑作『突破口』(1973)に主演している。 農薬散布業を隠れ蓑にして地方の小銀行を狙う泥棒稼業の男で、名前はチャーリー・バリック。映画の原題もこの名前、チャーリー・バリックである。盗み出した金がマフィアの金であったことから、物語が動き始める。 ドン・シーゲルの活劇である。私の好みでいえば、『ダーティハリー』(同監督 1971)よりもこの作品の方が活劇の要素が豊富で面白い。ところでこのチャーリー・バリックという男が決してしくじらない男なのである。 酒もタバコもやらず、かわりに牛乳を飲んでガムを噛んでいる。この男だけは間違ってもつまずくことがない、という感じである。まるでウォルター・マソーがチャーリー・バリック本人であるかのように動いている。 いや、というより、ウォルター・マソー本人がこれらの作品で二人の異なった男を生きたのである。真の名優にのみ可能なことである。


突破口! Charley Varrick

監督: ドン・シーゲル
キャスト:ウォルター・マッソー【チャーリー・バリック】
     ジョー・ドン・ベイカー【モリー】
1973年/アメリカ/111分

悪党チャーリーと数名の仲間がニューメキシコにある銀行を襲撃。銃撃戦の末、大金を奪うが、やがてチャーリーはその金がマフィアの隠し金だったことに気づく。金の奪還を目論むマフィアのボスは凄腕の殺し屋モリーを雇い、追跡を開始。 モリーは高飛びの準備を進めていたチャーリーに迫るが……。ワル同士の対決をスリリングに描いた犯罪サスペンス。


第十六話 トスカーナのジュリエット・ビノシュ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画には車という道具がよく使われる。ロードムービーは車がなければ存在しないジャンルである。ところがロードムービー以外でも物語が車での移動に依存しているような映画がある。 アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』(1997)はそうだ。この監督は同じ地域を車でぐるぐる移動することで物語を構成してしまった。新作『トスカーナの贋作』(2010)もこの形式を踏襲しているが、 これらに匹敵するのはヒッチコックの『めまい』(1958)か北野武の『HANA-BI』(1997)くらいであろう。『桜桃の味』には、観客が見た物語は現実にあったことの再現ではなくあくまでキャメラによって構成されたものであるということを、 イメージそのものが明らかにするようなラストシーンがある。こう書くと理屈っぽくなるが、ようするにこの物語は映画としてしか存在せず、またその限りでリアルであるということが、理屈によらずに理解できるようになっている。 はっとする終わり方である。映画イメージに関する明確な思想なしにはできないことだ。キアロスタミを見る楽しみはここにある。『トスカーナの贋作』のファーストシーンも楽しみである。 ある本の著者による講演会。キャメラは木製の大きな机の置かれた舞台を正面から撮る。司会者が前口上を述べている。時間になっても著者がやってこない。彼はすこし遅れて現れ、話し始める。 この間ワンカットである。キャメラは固定されている。これは講演会の記録フィルムではなく映画なのだということが理屈なしに分かる。すると今度は、キャメラをいつ逆構図に持っていくかが気になってくる。 真の映画的サスペンスである。この映画でこわれゆく女を演じたジュリエット・ビノシュがイヤリングをつけるシーンもすごい。鏡に向かうジュリエット・ビノシュを観客は正面から見るからである。 これは映画で、しかも映画だからリアルだと理屈なしに了解するシーンである。


トスカーナの贋作 Copie conforme

監督:アッバス・キアロスタミ
キャスト:ジュリエット・ビノシュ【彼女】
     ウィリアム・シメル【ジェームズ・ミラー】
2010年/フランス・イタリア/106分

イタリア、南トスカーナ地方の小さな村。講演に訪れたイギリスの作家がギャラリーを経営しているフランス人女性に出会う。芸術におけるオリジナルと贋作の問題について議論を交わす二人は、 カフェの女主人が彼らを夫婦だと勘違いしたのをきっかけに、あたかも長年連れ添った夫婦であるように装い、美しい秋のトスカーナをめぐる。


第十五話 最後の相米慎二

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 相米慎二監督が亡くなってもう十年になる。この機会にすべての作品を見直してみたいものである。その中で今回はまず『お引越し』(1993)に注目である。 桜田淳子と中井貴一の夫婦が別居のために引越しをしたところから始まる物語で、ひとり娘が田畑智子である。舞台が京都だから当然三人とも京都弁である。地元の田畑智子は別として、 桜田淳子と中井貴一はどちらも関西出身ではない。ところがこの二人の言葉はまぎれもなく京都人の言葉だった。私は十年以上京都に住んでいたことがあるからこの点は請合ってもよい。役者が口先で京都弁をなぞっているのではなく、 京都の人間がそこにいる、という感じなのだ。相米慎二の演技指導には定評があったが、これはそういう水準を超えていた。同じことが遺作の『風花』(2000)についてもいえる。 酒癖と女癖の悪さがもとで官庁を解雇された浅野忠信と、子供を実家に預けたまま東京で風俗嬢をする小泉今日子、つまずいた男とこわれゆく女の物語だ。この二人の存在がいかにもリアルだった。演技指導、などということですむ話ではない。 では、いったい何が起こっているのであろうか。矛盾した論理であることを承知であえていえば、浅野忠信は映画の中で現実に官庁を解雇され、小泉今日子は映画の中で現実に風俗嬢だった、そういうことである。同様に、中井貴一と桜田淳子は映画の中で現実に京都の人間だったのである。


お引越し

監督:相米慎二
キャスト:中井貴一【漆場ケンイチ】、桜田淳子【漆場ナズナ】
     田畑智子【漆場レンコ】
1993年/日本/124分

小学六年生の漆場レンコは、両親が離婚をし父ケンイチが家を出たため、母ナズナと二人暮らしとなった。 初めは両親の離婚がどうもピンとこなかったレンコだったが、新生活を始めようと契約書を作るナズナや、ケンイチとの間に挟まれ次第に心がざわついてくる。 揺れ動く11歳の少女の心を、瑞々しい映像で捉えた相米慎二の代表作。


第十四話 異色の西部劇を撮った男

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 西部劇では名前が重要である。彼がその男であると知れることで、物語を新しい局面にもっていくことができるからである。『ラスト・シューティスト』(ドン・シーゲル1976)では、本名のJ.B.ブックスを下宿屋の息子(ロン・ハワード)に知られたことから、 ジョン・ウェインが賞金稼ぎに狙われはじめる。異色の西部劇『大砂塵』(ニコラス・レイ1954)も名前の西部劇である。なにしろ原題がJOHNNY GUITAR である。ペギー・リーが歌った主題歌は原題のまま『ジョニー・ギター』だった。 このレコード(ドーナツ盤)も子供の頃私の家にあった。ファースト・カットは、丸腰でギターを担いで馬に乗る男(スターリング・ヘイドン)を俯瞰でとらえる。彼がジョニー・ギターである。 無論偽名であって、本名はジョニー・ローガン。名の通った拳銃使いである。いや、共演者のジョーン・クロフォードが映画の中で口にする言葉をそのまま使えば「拳銃狂(ガン・クレイジー)」である。 そう、これは拳銃で人生につまずいた男の物語なのである。拳銃でつまずいた男とその男を愛したがゆえにこわれてゆく女の物語、それが『大砂塵』である。 ところで、ジョニー・ギターなどというふざけた名前の男がじつはジョニー・ローガンであると知れたときの周囲の態度の変わり方は、やはり西部劇の醍醐味のひとつであろう。ニコラス・レイはこれを構図/逆構図ですばやく処理した。 私の大好きなカットである。


大砂塵 Johnny Guitar

監督:ニコラス・レイ
キャスト:ジョーン・クロフォード【ヴィエンナ】
     スターリング・ヘイドン【ジョニー・ギター】
1954年/アメリカ/110分

鉱山の町に流れ者のジョニー・ギターが現われ、昔の恋人だった酒場の主人ヴィエンナの元に身を寄せるが、彼女は無法者一味との関係が町の人々から嫌われ、一触即発の状態にあった…。 原題は放浪する主人公の名前だが、彼を巡る二人の女性が実質的な主人公であり、女性同士の決闘が公開当時話題となった。


第十三話 あこがれのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロードムービーというジャンルがある。『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース1973)、『センチメンタル・アドベンチャー』(クリント・イーストウッド1982)、『レインマン』(バリー・レヴィンソン1988)、『菊次郎の夏』(北野武1999)。どれも面白かった。 次はどこで何が起きるかという興味によって物語を展開できるという意味で、極めて映画的なジャンルである。ただし制約もある。恋愛を避けなければならない。恋愛が始まると移動が止まり、したがって映画そのものも終わってしまうからである。 旅の道連れがつねに子供であるのはそのためである。『レインマン』のダスティン・ホフマンは子供と同格の存在とみなしうる。ロードムービーにおいては恋愛が映画の終わりを意味している。 マーティン・スコセッシの『アリスの恋』(1974)もロードムービーである。アリス(エレン・バースティン)は専業主婦である。そして、その専業主婦という地位によってすでにこわれゆく女である。 ところが映画の始めに亭主が死んで、アリスは小学生の息子と故郷へ向かうことになる。テキサス州トゥーソンから、かつてセミ・プロの歌手として娘時代を送ったカリフォルニア州モントレーへ、 こわれゆく女であった女がおのれの存在を回復させる旅の物語だ。自分の過去へと還ることが開かれた未来へ向かうことであるという倒錯した時間が流れる。この流れを停止させ映画を終わらせるのがアリスの恋であった。


アリスの恋 Alice Doesn't Live Here Anymore

監督:マーティン・スコセッシ
キャスト:エレン・バースティン【アリス・ハイヤット】
     クリス・クリストファーソン【牧場主:デヴィッド】
1974年/アメリカ/113分

夫を事故で亡くしたアリスは、息子トミーを連れ故郷へと旅立つ。歌手になる夢を実現させようとするがなかなか難しく、やむなくウェイトレスをして旅費を稼ぐことに。やがてそんな彼女に好意を抱く牧場主デヴィッドが現れ…。 M・スコッセッシ日本初お目見えの作品。第47回アカデミー賞ではエレン・バースティンが主演女優賞を受賞した。


第十二話 心の場所

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

『イヴの総て』(ジョゼフ・マンキーウィッツ1950)は、無名の素人(アン・バクスター)が有名な舞台女優(ベティ・デイヴィス)を利用して成功していく物語だった。 まだ無名のマリリン・モンローも出演している。後にブレークする俳優が無名時代に出演していた映画は他にもある。しかし、そういう俳優が何人も出ていたという映画は稀であろう。 ロバート・ベントンがサリー・フィールド主演で撮った『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)はそういう稀な映画である。1930年代、大不況時代のテキサス、若い未亡人のサリー・フィールドは綿花の栽培で生計を立てる。 現場を預かる黒人労働者にダニー・グローバー、人気シリーズになった『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー1987)はこの映画の三年後。 陰気な下宿人にジョン・マルコビッチ、『ザ・シークレット・サービス』(ウォルフガング・ピーターゼン1993)でイーストウッドと対決するのは九年後。 サリー・フィールドの姉の夫にエド・ハリス、『アポロ13』(ロン・ハワード1995)は十一年後になる。私はこの映画を封切の時に見に行った。サリー・フィールド以外は知らない役者だと思って見た。 またそう思うと地味な映画に見えた。警察官の夫が事故で亡くなり家のローンと二人の子供が残される。サリー・フィールドがこの困難に立ち向かうという話である。 これしきのことでこわれゆく女にならないのがサリー・フィールドなのであった。


プレイス・イン・ザ・ハート Places in the Heart

監督:ロバート・ベントン
キャスト:サリー・フィールド【エドナ・スポルディング】
     リンゼイ・クローズ【姉:マーガレット】
1984年/アメリカ/111分

1935年テキサス。夫を酔っぱらいの黒人に殺され、その日から一家の大黒柱となったエドナ。世間の冷たい目に耐えながら強く明るく生きる女性をフィールドが好演した。ネストール・アルメンドロスによる広大な綿畑を捉えたカメラも絶妙。 第57回アカデミー賞において『アマデウス』に破れ、受賞は脚本賞・主演女優賞受賞にとどまった。


第十一話 ニーノ・ロータの思い出

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 日本人好みのメロディというのがある。『鉄道員』(ピエトロ・ジェルミ1956)、『刑事』(同監督1959)、『ローマの恋』(ディノ・リージ1960)、『禁じられた恋の島』(ダミアノ・ダミアーニ1962)。 すべてカルロ・ルスティケッリによる作曲である。そういえばメロディがどれもよく似ている。『刑事』のクラウディア・カルディナーレは警察が追う男を匿っていた。だが別にこわれゆく女ではない。 ルスティケッリのメロディはこわれゆく女には向かない。どちらかといえば愚かな女によく合う。誠実な男を裏切り続ける『ローマの恋』のミレーヌ・ドモンジョのように。これと対照的に、 ニーノ・ロータのメロディはこわれゆく女によく合う。『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン1960)のマルジュ(マリー・ラフォレ)がギターを爪弾いてスキャットを口ずさむカットがある。 クローズ・アップだが口元だけフレームから外れている。 アンリ・ドカエのキャメラだが、この均衡を逸した構図が示すのはこわれゆく女以外の何者でもない。『道』(フェデリコ・フェリーニ1954)のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)は決して愚かな女ではない。 むしろこわれゆく女である。その証拠にニーノ・ロータのメロディがこの上なくよく合っている。子供の頃、私の家には『刑事』と『太陽がいっぱい』のレコード(いわゆるドーナツ盤)があった。 私が好んでかけていたのは『太陽がいっぱい』の方である。


太陽がいっぱい Plein soleil

監督:ルネ・クレマン
キャスト:アラン・ドロン【トム・リプレイ】
     モーリス・ロネ【フィリップ・グリーンリーフ】
1960年/フランス・イタリア/117分

悪友フィリップを、彼の父親の頼みで連れ戻しに来た貧乏な若者トム。親の金で遊び回る彼の金目当てにトムは行動を共にするが、フィリップの傍若無人さに怒り、これを殺害してしまう。 死体を海に捨てた後、トムはフィリップになりすまして彼の財産を手に入れようと画策し、計画を実行していく…