第三十話 瞬間の人生

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 フランソワ・トリュフォーは『野性の少年』(1970)で撮影監督にはじめてネストール・アルメンドロスを起用した。それまでの作品は主にラウール・クタールが撮影監督を務めている。『ピアニストを撃て』(1960)も『柔らかい肌』(1964)もクタールのキャメラである。『野性の少年』にアルメンドロスのキャメラが必要なことは見ればすぐ分かる。 例えば、風にそよぐ木のカットなどは、人間の視点から独立して自然が自らを表現しているかのように映し出される。これが素晴らしい。この作品で注目すべきことがもうひとつある。 カットのつなぎでアイリスイン・アイリスアウトを使用していることである。瞳(アイリス)を閉じるようにカットが暗くなって終わる、サイレント映画によくあるあの技法である。 フェイドイン・フェイドアウトという類似の技法があるが、こちらの方がモダンな感じがする。ひとつのカットが真っ暗になって終わり、また次のカットが始まる。二つのカットはいわば闇によって隔てられている。 映画がカットという生の断片をつないで構成されているということを強く意識させる技法である。こういう技法が強烈にリアリティーを感じさせる場合がある。 登場人物の生活に連続性や発展性がなく、その日その日、その瞬間その瞬間を生きているような物語はこの技法が効果をあらわす。生の断片が無の中に消え、また別の生の断片が始まる。そこには別に一貫性がない。 人生につまずいた男の物語を語るにはもってこいの技法である。『チャオ・パンタン』(クロード・ベリ 1983)はそれが成功した作品である。 それに比べると『野性の少年』のアイリスは、つねに新しい一日が始まるという積極的な解釈で使用されていた。『チャオ・パンタン』で私の好きなカットがある。 息子を自殺で亡くした元刑事(コリューシュ)が、夜勤明けに酒を飲むカットである。何ということもないカットだが、妙に味のあるカットであった。


チャオ・パンタン Tchao Pantin

監督:クロード・ベリ
キャスト:コリュシュ【ランベール】、リシャール・アンコニナ【ベンスサン】
     アニエス・ソラル【ローラ】
1983年/フランス/100分

ガソリンスタンドの夜間給油係をしている中年男ランベールはある若者と知り合い、親子関係にも似た淡い友情を育んでゆく。 だが、麻薬の売人だった若者は不手際からボスに睨まれ殺されてしまう。友を失い、復讐のため仇を捜し始めるランベール。 彼にはそうしなくてはならない理由があった…。


第二十九話 赤いコートのナタリー・ウッド

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 不良少年や不良少女を題材にした作品がある。古典的な作品としては『理由なき反抗』(ニコラス・レイ 1955)や『ウェストサイド物語』(ロバート・ワイズ 1961)がすぐ思い浮かぶ。『ランブルフィッシュ』(フランシス・コッポラ 1983)のような異色の作品もある。『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン 1967)もこのジャンルに入るかもしれない。 さて私の説によれば、映画における不良少女というのはこわれゆく女の一種である。この点を最も明瞭に体現しているのが『理由なき反抗』のナタリー・ウッドであろう。 いまにも崩れ落ちそうな心を仲間との逸脱行動によってかろうじて支えているという感じをナタリー・ウッドの顔が表現している。この支えがなければ、つねに他人を睨みつけるようなその眼からはすぐに涙がこぼれ落ちるであろう。 実際、『理由なき反抗』でのナタリー・ウッドはファースト・カットから泣いている。赤いコートに赤い口紅という強烈な印象の外見に反してまるで救いを求めるように泣いているがゆえに、その心の二面的なあり様がいっそうはっきりと見える。 このような悲しみを秘めた強い眼差しは不良少女というこわれゆく女に特有のものである。ハリウッドは伝統的にこのような不良少女の顔を持っている。 ナタリー・ウッドの顔はラナ・ターナーやアイダ・ルピノの系譜に連なる不良少女の顔なのである。 彼女達はみな強い眼差しの下に崩れ落ちそうな心を隠し持っていた。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット 1946)のラナ・ターナーも、『ハイ・シェラ』(ラウール・ウォルシュ 1941)のアイダ・ルピノも、社会的な逸脱行動へと逃げ込まねばとたんに崩壊していく兆しを抱え込んでいる。『理由なき反抗』にはキャメラのフレームが不意に傾くカットが二回ある。もちろん意図されたものである。ふとしたきっかけで崩壊してしまう世界がそこにある。


理由なき反抗 Rebel Without a Cause

監督:ニコラス・レイ
キャスト:ジェームズ・ディーン【ジム・スターク】、ナタリー・ウッド【ジュディ】
     サル・ミネオ【プレイトー】
1955年/アメリカ/111分

越してきたばかりの少年ジムは泥酔して警察に保護され、警察署でジュディとプレイトーと知り合い意気投合。 初登校の日、ジムは不良グループのリーダー、バズに目をつけられてしまい、崖に向かって車を走らせるチキン・レースを挑まれる…。 ジェームズ・ディーンが、50年代のティーン・エージャーが持つ大人の社会への不満や苛立ちを自らのイメージをダブらせながら繊細に表現して彼の人気を決定づけた作品。


第二十八話 ザンパノが来た

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 イタリア映画におけるネオリアリスモといえば、ロッセリーニの『無防備都市』(1945)やデ=シーカの『自転車泥棒』(1948)などから始まる新しい映画の流れを指す言葉である。ヴィスコンティ初期の『揺れる大地』(1948)もこの新しい流れの中に位置づけられるであろう。 フェリーニの『道』(1954)は時期的にはこれらの作品から少し後になるが、やはりネオリアリスモを代表する作品である。大道芸人のザンパノ(アンソニー・クィン)は、前々から虫の好かない男だと思っていた綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)と暴力沙汰をおこして警察に逮捕されるが、その仕返しに田舎道でたまたま出くわしたこの芸人をいたぶり、力余って殴り殺してしまう。 その事件をきっかけに連れのジェルソミーナがこわれていく。アンソニー・クィンの大道芸が見物だが、客を集めるために路地で太鼓を叩く。かけ声は ho arrivato Zanpano(ザンパノが来た)である。 ジェルソミーナが仕込まれるのはまずこの太鼓とかけ声だった。どさ回り芸人の物語だからロードームービーである。場面のつなぎには道具を積んだオート三輪を運転するアンソニー・クィンを前から撮ったカットがかならず入る。 このカットによって物語が再開し、さあ次はどんなことが起きるかという興味をもたらすわけである。だから技術的に重要なカットである。ザンパノは気が少し変になって使い物にならなくなったジェルソミーナを置き去りにしてしまう。 映画のラストで、この女が浮浪者になり拾われた家で亡くなったことをザンパノは知る。したがって、この映画は女がこわれていく過程をじつは途中までしか見せていない。しかし、それで十分である。狂った女を延々と見せるのがリアリスモなのではない。むしろ、こわれゆく女とはひとの眼には見えない存在であるということが強烈に胸を突いてくるラストである。


道 La Strada

監督:フェデリコ・フェリーニ
キャスト:ジュリエッタ・マシーナ【ジェルソミーナ】、アンソニー・クィン【ザンパノ】
     リチャード・ベイスハート【綱渡り芸人/キ印】
1954年/イタリア/104分

旅芸人のザンパノは芸の手伝いをさせるため、貧しい家の娘ジェルソミーナをタダ同然で買い取った。粗野で暴力を振るうザンパノと、頭が弱いが心の素直なジェルソミーナは一緒に旅に出る。 1956年のアカデミー外国語映画賞を受賞した、自他共に認めるフェリーニの代表作の一つ。音楽は、フェデリコ・フェリーニ監督作品を数多く手掛けたニーノ・ロータが作曲した。


第二十七話 ダスティン・ホフマンの疾走

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロベルト・ロッセリーニの『殺人カメラ』(1948)は面白い作品だった。町の写真屋がそのカメラで人物を撮影し、店に帰って現像すると本人が死んでしまうという不思議なカメラの話である。このアイデアも面白いが、映画として面白いのは本当に本人が死んだかどうかを写真屋が確認しにいく場面である。 この写真屋の小男が現場に走る。路地を抜け、階段を上り、とにかく走る。それが繰返されるうちにこの男がまた走り出すのがはやく見たくなってくる。ダスティン・ホフマンの主演作品に『マラソンマン』(ジョン・シュレシンジャー 1976)という作品がある。 ジャンルとしては政治的な陰謀が絡むミステリーで、長距離ランナーのダスティン・ホフマンが事件に巻き込まれるのである。ダスティン・ホフマンが練習で走るシーンもある。 ダスティン・ホフマンという役者はなぜか走ることがよく似合う。『卒業』(マイク・ニコルズ 1967)のラスト・シーンではキャサリン・ロスの結婚式が行なわれている教会へ走っていった。『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン 1979)ではジャングルジムから落ちて顔に怪我をした息子を抱きかかえて病院に走った。『クレイマー、クレイマー』などは、奥さんが急に家出したので息子の世話で昇進をふいにした上に会社を解雇されたところへ、奥さんが高給取りになって帰ってきて裁判で争った挙げ句子供をとられるという話で、これだけ聞けばどう見ても人生につまずいた男の物語である。ところがそういう物語にならないのはダスティン・ホフマンだからである。 どう見てもつまずいているのに本人はいっこうにつまずいたと思っていない、そういう不屈の意志がダスティン・ホフマンの持ち味である。では、意志というものを映画的に見せる技法は何か。技法も何もない。その男を走らせるに限る。ダスティン・ホフマンを見て私がいつも感じることである。


クレイマー、クレイマー Kramer vs. Kramer

監督:ロバート・ベントン
キャスト:ダスティン・ホフマン【テッド・クレイマー】、メリル・ストリープ【ジョアンナ・クレイマー】
     ジャスティン・ヘンリー【ビリー・クレイマー】
1979年/アメリカ/105分

舞台はニューヨーク・マンハッタン。 仕事第一のテッドは、家事と育児を妻のジョアンナに全て押し付けていた。思いつめたジョアンナは一人息子ビリーを置いて家を出ていき、テッドは生活の転換を余儀なくされる。 始めはぎくしゃくしていた父子の関係が、次第にお互いがなくてはならない、愛情あふれるものに変化していく。第52回アカデミー賞作品賞ならびに第37回ゴールデングローブ賞 ドラマ部門作品賞受賞作品。


第二十六話 こわれゆく少女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

グリフィスの『散り行く花』(1919)はやはりサイレント映画を代表する作品であろう。原題は BROKEN BLOSSOMS である。これを知っていれば、ジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』(2005)がグリフィスへの、いや映画へのオマージュであることが分かる。『散り行く花』のリリアン・ギッシュはこわれゆく女というより、むしろこわれゆく少女である。 ボクシングを職業とする父親(ドナルド・クリスプ)と二人暮らしの少女は、気性の荒い父親の叱責を恐れて家事をこなす日々を送る。少女の哀れさは映画の観客が好む題材である。では、こわれゆく少女という微妙な存在をいかに視覚的に見せていくのであろうか。 グリフィスはリリアン・ギッシュの顔の表情をフルに使った。サイレント作品とはいえ『散り行く花』にはクローズ・アップが多い。これと対照的に、少女を見る大人の表情でこわれゆく少女を表象する技法がある。 相米慎二が『お引越し』で使用した技法である。少女の心境を観客の評価に委ねてしまうのではなく、映画の中での大人の表情によって間接的に観客に提示するという技法である。この技法を得意とするのはじつはイーストウッドで、『恐怖のメロディ』(1971)などはこの技法で押している。 イーストウッドにつきまとうストーカーの女(ジェシカ・ウォルター)の言動の異常性がイーストウッドの表情から読み取れるようにカットが組んであるわけである。 これぞ玄人の仕事である。『お引越し』では父親の中井貴一の顔が、夫婦の別居で母親の桜田淳子と暮らすことになった一人娘の田畑智子をこわれゆく少女として表象している。 中井貴一はこの作品ではつねに苦い顔をしているが、この顔は別居してでも一人で生きたいという身勝手を通しながら、でも娘のことは心配であるという痛々しくも矛盾した顔である。 田畑智子はといえば、たぶんごく普通にキャメラの前に立っていたに違いない。


散り行く花 BROKEN BLOSSOMS

監督:D・W・グリフィス
キャスト:リリアン・ギッシュ【ルーシー・バロウズ】、リチャード・バーセルメス【チェン・ハン】
     ジョン・ギャヴィン【バトリング・バロウズ】
1919年/アメリカ/90分

19世紀ロンドンのスラム街、少女は酒飲みのボクサーである父親バトリングの暴力におびえて家を飛び出す。夢に挫折した中国人の若者チェンとの間に純愛が芽生え、烈火のように怒った父親にルーシーは力ずくで連れ戻されてしまう。 サイレント時代のアメリカ映画を象徴する巨匠グリフィスと人気女優ギッシュの傑作。痛ましくも純粋な愛の美しさに泣く悲劇。


第二十五話 ジャネット・リーの中古車

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ニューヨークやロサンゼルスのような大都会をヘリコプター撮影で俯瞰し、次いで物語の発端となる事件の現場のカットへつなぐというオープニングは、イーストウッドのトレードマークのようになっている。『ミスティック・リバー』(2003)はこれがとりわけ見事だった。 何百万という人口を持つ大都市の中で個人の存在など匿名性の中に埋もれる塵のようなものにすぎないということが俯瞰によって示されているがゆえに、個人の苦しみがいっそう深刻な意味を持つからである。 どれほど深い苦しみであれ、そんなものは誰も関心をもたない何百万分の一の存在にすぎない。この認識が苦しみを軽減するのではなくむしろ深めるのである。 ところで、この形式のオープニングはヒッチコックの『サイコ』にまで遡ることができる。アリゾナ州フェニックスの中心部を俯瞰したキャメラはそのままホテルの窓から部屋の中へとワンカットで入っていく。 ジョン・ギャビンとジャネット・リーの情事のシーンだが、冒頭の俯瞰撮影のせいで彼らの行為が何とも卑小なものであることを観客は見る。また同様に、この男との生活のために会社の金を持ち逃げして車を走らせるジャネット・リーの行為が、いかにも三面記事的な愚かな行為に見えてくる。 無論本人は必死だが、その必死さが極端に相対化され、ほとんど意味を持たないものになってしまっているのだ。映画の前半を占めるジャネット・リーの逃亡劇は、主観的には強烈な情念が相対的にはごく卑小なものにすぎないという構図の中で成立している。 簡単にいうと、端から見れば馬鹿馬鹿しいようなことにのめり込んでいるわけである。女がこわれていく過程をこういう形で見せていくのはやはりヒッチコックならではである。 その必要もないのに中古車店で車を買い替えるシーンは、この明確な構図の中ではじめて成立する。ヒッチコックによる申し分のないカット割りが楽しめるシーンである。


サイコ Psycho

監督:アルフレッド・ヒッチコック
キャスト:アンソニー・パーキンス【ノーマン・ベイツ】、ジャネット・リー【マリオン・クレイン】
     ジョン・ギャヴィン【サム・ルーミス】、ヴェラ・マイルズ【ライラ・クレイン】
1960年/アメリカ/105分

結婚をねだるマリオンに応じない恋人サム。ある日マリオンは仕事で預かった金を横領。逃走中のモーテルで若き経営者ノーマンと会話を重ねるうち自首を決意するが、 独りになったマリオンに、突然侵入してきた影が襲いかかった。サイコ・サスペンス映画の元祖であり、代表作。ヒッチコックがマリオンの事務所の外でウェスタンハットの通行人として登場。


第二十四話 カプリ島のBB

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『軽蔑』(1963)はジャン=リュック・ゴダールの六本目の長編作品である。アルベルト・モラヴィア原作。ブリジット・バルドー主演。ブリジット・バルドーはミシェル・ピコリの若妻の役である。 ミシェル・ピコリは劇作家だが、映画の脚本の仕事を請負う。金になるからである。夫婦生活のために新しく購入したマンションもまだ払いが残っている。だから、二人の生活のために気乗りのしない仕事をあえてしているといってもよい。 ところが、それが妻の気に食わないのだ。なぜなのかは夫には理解できない。問い質しても彼が納得する答えは得られず、かえって妻のさらなる嫌悪を駆り立てるのみである...。そう、これは夫婦の物語である。 こういう関係の中で女はこわれていくということを観客は明瞭に見る。そして、その物語が映画作りの現場での確執を背景に進んでいく。アメリカ人のプロデューサー、プロコシュ(ジャック・パランス)と監督(フリッツ・ラング本人)との確執はとくに見物である。 それにしても、ブリジット・バルドーにこういう役を当てるということを、当時いったい誰が考えたであろうか。しかし、実際に映画を見るとブリジット・バルドーほどこういう役に適した女優は存在しないということが分かる。 かつて愛していた男が急に情けない存在に見えてくると、その男を愛している自分も嫌になってくるので、男への愛を否定することで何とか自分の存在を肯定しようとするがうまくいかない。 うまくいかないからもっと不機嫌に男を避けるようになる。その理由は男には皆目分からない。下手にご機嫌を取ろうとするとますます嫌われる。ほら、ブリジット・バルドーにぴったりである。 ロケ地のカプリ島では、そういう夫婦の問題とは関わりなく映画の撮影が進んでいく。フリッツ・ラングの監督姿がすばらしい。充実した60年代ゴダール作品の中でもひときわ異色の作品である。


軽蔑 Le Mepris

監督:ジャン=リュック・ゴダール
キャスト:ブリジット・バルドー【カミーユ・ジャヴァル】、ミシェル・ピコリ【ポール・ジャヴァル】
     フリッツ・ラング【フリッツ・ラング】、ジャック・パランス【ジェレミー・プロコシュ】
1963年/フランス・イタリア/102分

劇作家ポールは、プロデューサーのプロコシュからフリッツ・ラング作品の脚本修正の依頼を受ける。意に染まぬ仕事を引き受けた夫に、妻カミーユの愛情は冷めてゆく…。 当時、2年前に結婚したばかりの妻アンナ・カリーナとの愛の問題に苦悩したゴダールが、自己を投影し、愛の不可能性を描いた作品。


第二十三話 アメリカ映画のアルメンドロス

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『プレイス・イン・ザ・ハート』(ロバート・ベントン1984)は私の好きな作品のひとつである。家族のつながりというアメリカ映画の古典的な主題を取り扱っているが、カットのつなぎは古典的なアメリカ映画のように速くない。 むしろワンカットが長くなっている。映画としてはその方がモダンである。撮影監督はネストール・アルメンドロス。フランスでロメールやトリュフォーの作品を撮っていたキャメラマンである。 アルメンドロスのキャメラによって、自然は突如としてその存在を顕す。例えば『モード家の一夜』(エリック・ロメール 1968)での雪の積もった工場地帯の夜。それは、まるで今そこに存在し始めたかのようにスクリーンに映し出される。 観客は、かつて降った雪の技術的な再現ではなく、今降っている雪をスクリーン上に見る。そういう感じである。無論、こんな言い方は論理になっていない。しかし、アルメンドロスのキャメラには人にこういう無理をいわせるような新鮮さがある。 1978年にトリュフォーの作品を二本撮った(『緑色の部屋』『逃げ去る恋』)後は、しばらくアメリカ映画の時代が続く。『天国の日々』(テレンス・マリック 1978)、『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン 1979)、『青い珊瑚礁』(ランダル・クレイザー 1980)、『ソフィーの選択』(アラン・パクラ 1982)。『天国の日々』でリチャード・ギアの恋人を演じたブルック・アダムズはこわれゆく女だった。 チンピラ気質の労働者リチャード・ギアは農場主のサム・シェパードに若いブルック・アダムズを差し出す。そうしておいて自分はこの女との関係を持ち続ける。そういう理不尽を承知することで、女はこわれてゆくだろう。 その緩慢な崩壊の過程を示すカットがすばらしい。とりわけ、夜の農場のカットなどは今はじめて夜が来たかのように映し出される。現在進行形の崩壊がそこにある。


天国の日々 DAYS OF HEAVEN

監督:テレンス・マリック
キャスト:リチャード・ギア【ビル】、ブルック・アダムス【アビー】
     サム・シェパード【チャック】
1978年/アメリカ/95分

シカゴから放浪の旅に出るビリーと妹リンダ、ビリーの恋人アビーの3人はテキサスの農場で麦刈り人夫の職につく。若き農場主チャックはアビーを見初め、彼の命が長くない事を知ったビリーは、楽をしようとアビーに形だけの結婚を促す…。 20世紀初頭を舞台に、雇われた労働者達の姿と人間の弱さと脆さを描く。ネストール・アルメンドロスによる徹底したリアリスティックで美しい映像が高く評価されている。


第二十二話 ボギーの場所で

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『カサブランカ』(マイケル・カーティス 1942)はハンフリー・ボガードという役者のイメージを決定づけた作品であろう。政治的に中立の立場をとる個人主義者、信頼する人間とそうでない人間とを峻別する態度、クールなようですぐカッとなる短気な性格、そして愛する女への執着...。 しかし、もうひとつ見落としてはならないのはボギーの場所である。「リックのカフェ」の二階のオフィスには大きめのデスクがあり、その向こうに側に椅子が置かれている。 その椅子に座るとデスクをはさんで部屋のドアがすぐ正面に見え、入ってくる人間と目が合うようになっている。ここがボギーの場所である。デスクは、別に書き物をするためのものではない。 むしろ敵と向かい合うのに必要な仕切りである。したがって、例えば『孤独な場所で』(ニコラス・レイ 1950)の場合にはデスクと椅子がこういう配置になっていない。 この作品のボギーは脚本家で、デスクはそれ本来の役割を与えられているからである。同じくニコラス・レイと組んだ作品『暗黒への転落』(1949)では弁護士の役だが、弁護士事務所のデスクと椅子がここではカサブランカ式にドアを向いて置かれていることが目につく。 それを意識させるようなカットがいくつもあるからである。イタリア系の母子家庭の少年(ジョン・デレク)が少年院を出た後人生につまずき続ける物語で、ボギーはその少年の弁護人である。 ジョン・デレクは『理由なき反抗』(ニコラス・レイ 1955)のサル・ミネオと同じタイプの、情緒不安定な感じの美男子である。結局この少年は警官殺しで死刑になる。ボギーはそのことを深く悔いる。 個人的に関わりのあったこの少年に対し、真摯な救いの手を差し伸べることがついにできなかったからである。弁護士事務所の重厚なデスクが少年との間に無用の仕切りを作っていたように、私には見える。 ボギーの場所が珍しく否定的な意味を帯びた作品である。


カサブランカ Casablanca

監督:マイケル・カーティス
キャスト:ハンフリー・ボガート【リック・ブレイン】
     イングリット・バーグマン【イルザ・ラント】
1942年/アメリカ/102分

1941年、モロッコの都市カサブランカ。アメリカ人のリックは、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザと、経営する酒場「カフェ・アメリカン」で偶然の再会を果たす。 パリの思い出である『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が切なく流れる。1989年に始まったアメリカ国立フィルム登録簿で最初にセレクトされた25本の1本で、65年経てもなお不滅の人気を誇るロマンス・フィルムである。


第二十一話 大杉漣の車椅子

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画では椅子や机などの家具調度は重要なものである。構図/逆構図のような古典的なカットつなぎは、向き合った二人の人物をとらえるのに適しているが、そういう位置に人物を配置するには椅子や机がなければならない。 したがって、映画における椅子とは基本的に人物の向きを固定させるための道具である。向きが固定されているということは、カットをつなぐ際のポイントである視線が固定できるということを意味する。 ここから見れば、車椅子という道具の映画的な機能は明瞭であろう。ヒッチコックは『裏窓』(1954)でジェームス・スチュワートを車椅子に座らせることで視線の自由を与えたのである。 いうまでもなく『裏窓』はいわゆるのぞき(窃視症)の映画なのだ。映画において、車椅子に座る人物とはものを観察する人物でなければならない。『HANA-BI』(北野武 1997)で大杉漣が絵を描くのは、『裏窓』のジェームス・スチュワートが望遠レンズを覗くのと同様に映画的な必然である。 ただ、注目すべき点は、ヒッチコックにおける車椅子がもっぱらその機能によって使用されていたのに対し、北野監督はこの道具の情緒的な意味をも活用していることである。 職務中に撃たれて警察を退職し妻子にも逃げられた中年男の哀れさは車椅子によって眼に見えるものになる。この年齢で人生につまずいたらまずやり直すことはできない。 大杉漣の住む借家には、高価ではないが品のよい家具調度がよく整理されて置かれている。それでいっそう哀れである。こういう独身男の部屋は乱雑に散らかっていた方がリアルであるというような誤ったセンスで映画を撮らないのがこの監督である。『菊次郎の夏』(1999)もそうである。 母方の祖母の家から小学校に通うあの大人しい少年が一人で食べる昼食のカットは、部屋がきれいに片づいているがゆえにいっそう哀れであった。美術監督はどちらも磯田典宏である。


HANA-BI

監督:北野 武
キャスト:ビートたけし【西 佳敬】 岸本加世子【西 美幸】
     大杉漣【堀部泰助】
1997年/日本/118分

妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な刑事の人生模様を描く。第54回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作品。金獅子賞を受賞した日本映画は「無法松の一生」以来40年ぶり。 北野の代表作で、日本を含め世界各国で数々の賞を受賞した。