第四十話 娼婦マリー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ジャック・ベッケルの傑作『肉体の冠』(1951)で娼婦マリーを演じたのはシモーヌ・シニョレである。物語は地元のヤクザ者を客に持つシモーヌ・シニョレがかつての恋人(セルジュ・レジアニ)と偶然出会い、カフェの中庭でワルツを踊るところから始まる。 セルジュ・レジアニはその町で家具職人の見習いをしているが、いい歳で見習いというところから、若いときに人生につまずきそれ以来足を洗ってなりを潜めているということが見て取れる。 シモーヌ・シニョレの方はよりを戻そうとするが、その行為によってかえって男をヤクザ者との争いごとに巻き込み、男は結局死刑になってしまう。断頭台にかけられた男の最期を見届けるシモーヌ・シニョレのクローズアップに誰もいない中庭のイメージが続き、そこにワルツのメロディが流れて幕となる。 無論この中庭のイメージはシモーヌ・シニョレが夢想するイメージとして映し出されているわけである。男は死んだのだから二人で再びワルツを踊ることはない。 それゆえ、人間のいない中庭をゆっくりと移動していくキャメラの運動はシモーヌ・シニョレの想像の運動そのものとなる。そのようなイメージのあまりの透明さに愕然とするラストシーンである。 始めてこの作品を見た時、私はこれがジャック・ベッケルかと驚嘆しつつ歓喜した記憶がある。このラストシーンについてはまったく見事というほかない。人物の主観的な想像をイメージとして見せるということは映画ではごく普通に行なわれてきたことである。 だがこれがあまり安易に使用されると退屈である。物語の途中で挿入される回想シーンはその典型であろう。『肉体の冠』のラストにおける主観的イメージの使用はそのような通俗的なイメージの使用とはまったく異なっている。 にやけた顔で言い寄ってくる男どもなど小馬鹿にしてまともに相手にしない娼婦がただ一人愛する男を失ったとすれば、その女の現実の生にはもはや生きるべきものは何もない。その存在はただ崩壊していくほかない。 その堪え難い現実への抵抗として想像力というものが立ち上がってくるであろう。最後のカットのつなぎが表象しているのはこのような想像力の生成である。中庭のカットの透明さはそれが想像のイメージ以外の何ものでのないという点に起因している。 観客が現実に見ているイメージは決して現実に存在しないイメージであるという逆説がここに成立している。ジャック・ベッケルによって観客は見えないものを見たわけである。


肉体の冠 Casque d'or

監督・脚本:ジャック・ベッケル
キャスト:シモーヌ・シニョレ【娼婦マリー】、セルジュ・レジアニ【マンダ】
     クロード・ドーファン【ロラン】   1951年/フランス/98分

19世紀末のパリに実在した伝説の娼婦・マリーをめぐる愛憎劇。美しいブロンドの髪を兜型に結った彼女にはロランという情夫がいたが、彼への恋心は冷めきっていた。ある日彼女は、カフェで仕事をしていた大工のマンダと恋に落ちる。 激しい決闘の末、マンダはロランを殺してしまい、マリーを連れて逃亡するのだが…。ジャック・ベッケルの最高傑作であり、映画史の古典と絶賛されている。シモーヌ・シニョレは、本作で女優としての地位を獲得した。


第三十九話 娼婦ダラス

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 女達をこわれゆく存在にしているのは思い通りにならない現実である。ただし現実によって崩壊していくのはつねに女達であって男達ではない。なぜなら存在を崩壊に導く現実とは男達が作り出した社会制度および規範による生への圧力を指しているからである。 さてそうであるとすれば、娼婦という存在ほどこわれゆく女のイメージにふさわしいものはない。彼女達は幸福になる権利をあらかじめ剥奪された存在である。 ジョン・フォードの『駅馬車』(1939)で娼婦ダラスを演じたのはクレア・トレヴァーである。この作品の面白さは同じ馬車に乗り合わせた人間たちの関係が作り出す物語にある。 この点は原案であるモーパッサンの小説『脂肪の塊』と同じである。また娼婦であるダラスという女が蔑みの対象とされている点も小説と同じである。 ところが幸福になる権利を持たないはずの娼婦という存在が幸福を手にすることによってこの映画は終了する。小説にはこのような結末は存在しない。 脚本はダドリー・ニコルズだがこの結末にはジョン・フォードの思想が影響していると私は見ている。途中から駅馬車に乗り込んできたリンゴキッド(ジョン・ウェイン)は脱獄犯で、同乗している保安官(ジョージ・バンクロフト)はキッドを監獄に連れ戻さねばなければならない。 ところがアパッチの襲撃が保安官の職務の遂行を延期させる。騎兵隊の到着によって間一髪で襲撃から逃げ切ったところで本来キッドは逮捕されるはずが、保安官はキッドが弟の仇を討つまで逮捕を先延ばしする。 相手を倒してキッドが戻ってくる。キッドは当然逮捕され、道中でキッドから結婚を申し込まれたダラスはその幸福を奪われなければならないであろう。 ところが保安官はこの二人を馬車に乗せて逃がしてやる。最初から駅馬車に乗っているアル中の医者(トマス・ミッチェル)と二人で馬車馬の尻に石を投げながら大笑いして映画は終わる。 石を投げるのは馬を走らせるためだが、それは同時に現実を作り出している社会制度に風穴を空ける行為でもある。これは決して深読みではない。 ジョン・フォードはもともと詩的なイメージの造形を過剰に追求する資質を持った監督であって、『駅馬車』ではそれが例外的に抑制されているだけなのである。 ジョン・フォードのイメージには本来こうしたメタフォリカルで詩的な要素が含まれているのだ。男のために作られた社会制度を破壊する男達。『駅馬車』のラスト・シーンの痛快さはこの点に起因している。


駅馬車 Stagecoach

監督:ジョン・フォード
キャスト:ジョン・ウェイン【リンゴ・キッド】、クレア・トレヴァー【ダラス】
     トマス・ミッチェル【ブーン医師】   1939年/アメリカ/99分

西部劇のバイブルと言われる、アメリカ映画史に燦然と今も輝く金字塔。ジャンルとしては西部劇だが実際には駅馬車に乗り合わせた人々の人間模様を描きつつ、 終盤にはアパッチ襲撃と決闘という二つのクライマックスが待ち構えるという風に、99分という短い時間の中に映画の全てが込められている。 アルコール依存症気味の医者を演じたトマス・ミッチェルが、1939年のアカデミー賞助演男優賞を獲得した。


第三十八話 いかにして男を殺すか

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 男が女に殺されるのは映画の楽しみのひとつである。連続殺人という筋書きが定石だが、殺人の理由づけには大別すると二つのパターンがあるように思われる。 第一は精神異常で、何らかの心理的な要因が引き金となって次々に男を殺していくというものである。ヒッチコックの『マーニー』(1964)でティッピ・ヘドレンが演じたのはそういう性的な異常心理を持った女である。 このジャンルではクロード・ミレールの『死への逃避行』(1983)という異色の作品もある。イザベル・アジャーニが次々に男を殺していくのを探偵のミシェル・セローが追いかけるという物語だった。 ミシェル・セローはどちらかといえば冴えない中年男だが役回りとしては『マーニー』のショーン・コネリーと同じである。さて第二は怨恨で、この場合には次々に殺されていく男達を結びつける過去の事件が物語のポイントになる。 それが分かった時にはすでに男が窮地に立たされて逃げられないというサスペンスが楽しめるわけである。このジャンルで特に記憶しておくべき作品はトリュフォーの『黒衣の花嫁』(1968)であろうか。 ジャンヌ・モローが男達を殺してまわる女で、男の居場所を突き止め、口実を作って近づき、信用させた上で堂々と殺すのである。原作はコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)のミステリーである。 私はじつはジャンヌ・モローという女優がどうも苦手で、というのもルイ・マルの『恋人たち』(1969)も、アントニオーニの『夜』(1961)も、ジョゼフ・ロージーの『エヴァの匂い』(1962)も、ジャンヌ・モローが演じた女達の性格づけが映画の物語の流れを停滞させているように感じてしまうのである。 ジャンヌ・モローが演じる女達に共通している性格とはひとことでいえば心理の内向性とでもいうものである。男にとって謎めいた女ということなのかもしれないが映画の物語にとっては不透明な膜を作ってしまっている。『黒衣の花嫁』はこの点が明瞭で、自分の夫を誤ってライフルで撃って殺してしまった男達への復讐という暗い情念を内に秘めた女であることが冒頭で明らかにされるので、いつもどおりのジャンヌ・モローがじつに映画的にいきいきと動いているように見えるのである。 この作品では、男を殺すことでおのれの存在を回復させようとするこわれゆく女の物語に、ジャンヌ・モローの内向的な存在感が申し分なく適合している。ピエール・カルダンによるエロを強調した衣装も私のお気に入りである。


黒衣の花嫁 La Mariée était en noir

監督:脚本:フランソワ・トリュフォー
キャスト:ジャンヌ・モロー【ジュリー・コレール】、クロード・リーシュ【ブリス】
     ジャン=クロード・ブリアリ【コレー】   1968年/フランス・イタリア/107分

指輪交換の直前に婚約者を殺された花嫁が、5人の男たちを次々に殺していく復讐劇。 常に何らかの形の「愛」をテーマにしていたトリュフォーだが、本作は愛がいっさい描かれない異色作となった。 ジャンヌ・モローが『突然炎のごとく』以来6年ぶりにトリュフォー映画に出演した。モローの脚を執拗に映すカメラが特徴的。 自他共に認める脚フェチであるトリュフォーの情熱が遺憾なく発揮されている。


第三十七話 去っていく男

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 愛する女のもとから去らねばならぬと決意しそれを実行する男といえば、映画ファンの眼には『シェーン』(ジョージ・スティーヴンス1953)のアラン・ラッドの姿がすぐに思い浮かぶであろう。 ジャック・パランス一味との撃ち合いに出かける時点ですでにこの決意は整っている。卑怯にも背後から撃とうとした最後の相手を仕留めるとすぐ馬に乗って去っていったのだから。 男が愛する女のもとから去らねばならぬと決意するのは、その女に本来愛すべき別の男が存在することを確信するからである。『シェーン』の場合、その男とは女の正式な夫である。 こうした構図はアメリカ映画の伝統に受け継がれていて、例えば『マディソン郡の橋』(クリント・イーストウッド1995)がそれを踏襲している。無論イーストウッドが演じたのはガンマンではなく写真家である。 しかし物語の構図としては同じで、愛する女の真の幸福に配慮しおのれの情念に逆らって行動するという点が観客の情緒を刺激するわけである。その情緒は悲しみの一種だが、行為への尊敬を含んだ良質の悲しみといってよいであろう。 女が本当に愛している男は女が本来愛すべき男ではないがゆえに去らねばならないのである。ところがこれとは反対に女が本当に愛している男が帰ってきたためにその女から去るべくして去っていく男を見る場合には敗北の悲しみが漂うであろう。 去っていく男が善良な男であれば、この悲しみはいっそう強められる。『白夜』(ルキノ・ヴィスコンティ1957)のマルチェロ・マストロヤンニがそうである。 マストロヤンニがマリア・シェルをようやく口説き落としてデートに連れ出し、バールに入るシーンがある。他の客は二十歳前後の若いカップルばかりである。 女たちはみんな胸が大きく、さらにニットを着てその大きい胸を強調している。その中に置かれると、マリア・シェルはいかにも肉体的な魅力に乏しい女に見える。 こういう演出によって、肉体的な官能によってではなくただただマリア・シェルの可愛らしさに惚れ込んだマストロヤンニの善良さが明瞭に眼に見えるものになってくる。考えようによってはじつにえげつない演出である。 しかしそれがヴィスコンティの見事なところである。ラストシーンではとうとうマリア・シェルの待ちこがれた恋人(ジャン・マレー)が帰ってくる。 マリア・シェルの表情からすべてを理解したマストロヤンニは彼女から去る。おのれの善良さによって恋につまずいた男の物語である。


白夜 Le notti bianche

監督:ルキノ・ヴィスコンティ
キャスト:マルチェロ・マストロヤンニ【マリオ】、マリア・シェル【ナタリア】
     ジャン・マレー【下宿人】   1957年/イタリア/107分

イタリアのとある港町、仕事の都合でこの地に移り住んだ青年マリオは、ある夜、運河にかかる橋の上で美しい娘・ナタリアと出会う。 彼女は、結婚を約束した男を1年間待ち続けていた。マリオは徐々に彼女に心ひかれていき、2人の間には愛情が芽生え始めるのだが…。 原作はドストエフスキーの中編小説。ヴェネツィア映画祭銀獅子賞をはじめ、数多くの賞に輝いた悲しい恋の物語。


第三十六話 孤高の女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 自分の思い通りにならない現実の中で女はゆっくりとこわれてゆくものである。自分の思い通りに生きることが女達の希望なのだから。ところでこの崩壊に抵抗する流儀は女によって変わってくる。 自分の生き方を男に押しつけるのはたんなるわがままな女にすぎないが、男の意見などにとらわれず自分の思い通りに生きるとすればそういう女は男達にとっては孤高の存在に見えるであろう。 その心を読むことがいかにしてもできないからである。その場合、同じ女に惹かれる男同士のあいだには対立でなくかえって友情が育まれる可能性がある。男同士なら互いに何を考えているか心が読めるからである。 こういう変則的な三角関係は映画にするとちょっと魅力的である。『夕なぎ』(クロード・ソーテ 1972)がまさにそういう映画だった。孤高の女を演じたのはロミー・シュナイダーである。 ロミー・シュナイダーとイヴ・モンタンが微妙な距離を保ちながら交際を続けているところへ、ロミー・シュナイダーのかつての恋人(サミー・フレイ)が現れる。若い男である。始めは対立的だった二人の男はやがて親友となる。 ところが、ロミー・シュナイダーは不意にどこかへ消えてしまう。いってしまえばただそれだけの話である。魅力ある映画だがその魅力のほとんどはイヴ・モンタンはじめ役者の魅力である。 とりわけイヴ・モンタンはどのカットも素晴らしい。トリュフォーの『突然炎のごとく』(1961)もこの作品と同様一人の女に惹かれる二人の男の友情を取り扱っているが、私のような者にはこの繊細な友情はどうも分かりづらい。 イヴ・モンタンとサミー・フレイならばもっと単純明快で分かりやすいのである。その後、二人の男の前から姿を消したロミー・シュナイダーが舞い戻ってくるところで映画は終わるのだが、その終わらせ方は映画的にも魅力があった。 ある日の夜更け、親友となったイヴ・モンタンとサミー・フレイが釣りの計画を話している。そこへ車が停まりロミー・シュナイダーが降りてくる。この二つの場面をクロス・カッティングでつなぎ、さてこの三人はこれからどうなるかという余韻を残して映画は終わるのである。 サイレントの連続活劇時代に生み出されたクロス・カッティングという技法はアクションを交互に見せることでスリルを盛り上げるための技法であった。その技法をフランス式に解釈して恋愛心理劇に活かしたこのラストシーンを私は気に入った。


夕なぎ César et Rosalie

監督:クロード・ソーテ
キャスト:イヴ・モンタン【セザール】、ロミー・シュナイダー【ロザリー】
     サミー・フレー【ダヴィッド】   1972年/フランス/110分

中年の屑鉄屋セザールは、ロザリーという女性と出会い恋に落ちる。二人は同棲を始めるが、そこへロザリーのかつての恋人で絵描きのダヴィッドが現れる。 対照的な二人の男性にはさまれ、悩んだロザリーは姿を消すが、残された男たちの間には友情が芽ばえる。そんな二人のところへ、ひょっこり帰って来るロザリーだったが…。 大人の恋と友情を描いたフランス流恋愛ドラマ。フランス・シネマ大賞受賞作品。


第三十五話 アメリカ女優ジーン・セバーグ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ジーン・セバーグはアメリカの女優である。当たり前のことのようだが、この事実を確認しておくことには以外と意味がある。というのもジーン・セバーグはしばしばフランスの女優であると思われているようなのだ。 全米オーディションで選ばれて『ジャンヌ・ダルク』(オットー・プレミンジャー 1957)でデビューしたジーン・セバーグは正真正銘のアメリカ人である。 ハイスクールまでを過ごしたマーシャルタウンは米国アイオワ州に位置する。「マディソン郡の橋」のあるアイオワ州である。第二作はやはりオットー・プレミンジャーの作品で『悲しみよ、こんにちは』(1957)である。 フランソワーズ・サガンの原作が有名なのでこの映画もしばしばフランス映画だと思われているかもしれないがアメリカ映画である。 しかしジーン・セバーグの名声を決定的にしたのはフランス映画だった。『勝手にしやがれ』(ジャン=リュック・ゴダール1959)である。パリで一人暮らしをする米国からの留学生の役でずっとフランス語の台詞を喋っているからフランスの女優が米国人を演じているようにも見える。 だからくり返し確認する必要があるのだ。ジーン・セバーグはアメリカの女優であると。さて『勝手にしやがれ』の留学生パトリシアはジャン=ポール・ベルモンドのガールフレンドという役柄だが、いかにもフランスの男が夢中になりそうな雰囲気が素晴らしい。 パトリシアは一見するとこわれゆく女ではない。むしろパリのアメリカ人という自由な存在に見える。しかし警官に撃たれて死んでゆくベルモンドを見た後のジーン・セバーグのクローズアップにはある種の崩壊が予示されている。 この点で『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグは『肉体の冠』(ジャック・ベッケル1951)のシモーヌ・シニョレに似ている。愛する男の死に立ち会った女のクローズアップという過酷なイメージがこの二つの作品の最後のカットだからである。


勝手にしやがれ À bout de souffle

監督:ジャン=リュック・ゴダール
キャスト:ジャン=ポール・ベルモンドル【ミシェル・ポワカール/ラズロ・コバクス】
     ジーン・セバーグ【パトリシア・フランキーニ】   1959年/フランス/90分

ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと逃避行を始めるが、 ミシェルが警察に追われていることを知り、心変わりしたパトリシアが警察に通報してしまい…。 ジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作にして、ヌーベルヴァーグの記念碑作品。ゴダール本人も密告者役で出演している。


第三十四話 STAY GOLD

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)のタイトル・シーンは私がしばしば思い出すシーンのひとつである。車からの移動撮影で、上に向けられたキャメラには街路樹の葉をとおして空が見える。 遠くにはエッフェル塔が見えている。これだけのイメージがなぜか孤独で寂しい感じがする。この寂しさは空に向けられたキャメラに映し出されるイメージが誰の視線にも結びつけられていない点に起因している。 風景のカットはそれを見る誰かの視線のカットにつなげられるのが映画の文法である。ところが視線のカットなしにいきなり空が出現することがある。例えば『人情紙風船』(山中貞雄1937)で三村明のキャメラが撮った夜の空は人間的な視線が触れることのできない空である。 人間は自然という空虚な空間の中でまったく孤独な存在であることを痛感させる怖いイメージである。『大人は…』のタイトル・シーンは間違いなくこれと同じ種類のイメージである。 ところで、スーザン・ヒントンの小説を原作に持つ『アウトサイダー』(フランシス・コッポラ1983)という作品には『大人は…』に共通するものがある。 幸福とはいえない家庭環境の中で少年に起こる人生のつまずきが題材だからである。『ベストキッド』(ジョン・アビルドセン1984)のラルフ・マッキオが出演していた。ところが空が違う。 この作品に出てくる空は少年が見ている空なのである。ある意味でメロドラマ風のイメージである。ジョージ・スティーブンスやダグラス・サークの作品でこんな空をよく見た。この空は『大人は…』の空とははっきりと違う感じがする。 でもどこが?『アウトサイダー』の主題歌にはスティービー・ワンダーの STAY GOLD が使われていたことがヒントになる。人生につまずいた少年を励ます曲だ。同様に、この作品にあるのは人間に語りかける空のイメージで、人間を孤立させる空のイメージではなかったのである。


アウトサイダー The Outsiders

監督:フランシス・コッポラ
キャスト:C・トーマス・ハウエル【ポニーボーイ・カーティス】、マット・ディロン【ダラス】
     ラルフ・マッチオ【ジョニー】   1983年/アメリカ/91分

貧困層の若者のグループ“グリース”と、富裕層のグループ“ソッシュ”。2つのグループの対立からメンバーの刺殺事件が起き、 関わったジョニーとポニーボーイは教会に身をひそめるが、そこに火災が発生。取り残された子どもたちを救おうと燃える教会に飛び込む二人だったが…。 幾多の青春映画とは一線を画す細やかな心理描写とストーリーで群を抜いた傑作に仕上がっている。


第三十三話 ボニー・パーカーの母親

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1930年代の大不況時代の銀行ギャング、ボニー&クライドをモデルにした『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン1967)でボニー・パーカーを演じたのはフェイ・ダナウェイである。 映画では、年頃の娘にとって何の楽しみもない田舎町に住むボニーが、刑務所から出てきたばかりのクライド・バローと出会い、退屈な街から脱出するということ以外にはほとんど何の目的もないような形でそのままこの与太者のような男についていくところから物語が始まっていた。 クライドを演じたのはウォレン・ベイティである。映画の脚本はロバート・ベントンがもともとフランソワ・トリュフォーのために書いたものである。 不況による貧窮と鬱屈した欲望によって崩壊しつつあった女がおのれを取り戻そうとする物語だが、その手段が違法行為なのだから彼女の望みは達せられることはない。 どうあがいても自分の境遇から脱出することのできないこわれゆく女の物語である。だからこれはフェイ・ダナウェイの映画である。30年代風のファッションも決まっている。 淡色の生地で低いウェスト位置のスカートなどはフェイ・ダナウェイが着るとじつによく似合う。銀行ギャングの一味が警察に追われながらその日暮らしを続ける物語だから一種のロードムービーである。 脇役にジーン・ハックマンが加わることで映画としては格段に面白くなっている。芝居で楽しめるからである。ところが、逃亡中の一味が警察の眼をかいくぐってボニーの家族とピクニックに出かけるシーンは何か異質だった。 このシーンだけが不思議とドキュメンタリー風に撮影されているのである。ボニーの母親が娘に向かって二言三言喋るのだが、本物のボニー・パーカーの母親が出てきたかと錯覚するような不思議なシーンである。 まるで枯木のようなこの母親を見るだけで、ボニー・パーカーの違法行為が崩壊への抵抗という意味を持ってくっきりと浮かび上がるのだった。


俺たちに明日はない Bonnie and Clyde

監督:アーサー・ペン
キャスト:フェイ・ダナウェイ【ボニー・パーカー】、ウォレン・ベイティ【クライド・バロウ】
     ジーン・ハックマン【バック・バロウ】   1967年/アメリカ/112分

大恐慌時代の実在の銀行強盗であるボニーとクライドの、出会いと死に至るまでを描いた犯罪映画。アメリカン・ニューシネマの先駆的存在として有名。 ワーナー・ブラザーズは最初この映画をB級映画としか考えていなかったが、公開されるや否やその斬新な内容が批評家たちに絶賛され、最終的に5000万ドル以上を売り上げる大ヒットとなった。 ベイティは本作のプロデューサーも兼ねている。


第三十二話 ジョディ・フォスターの子役時代

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『キッド』(チャップリン 1921)のジャッキー・クーガン以来、ハリウッドは有名な子役を輩出してきた。 戦前から戦後にかけてのミッキー・ルーニー、ジュディ・ガーランドなどは特に有名だが、彼らほどの人気者でなくても優れた子役は大勢いたはずである。 私はステージ・ママというのは米国に特有の存在かと思っていたがどうもそうではないらしい。 ヴィスコンティの『ベリッシマ』(1951)ではアンナ・マニヤーニがローマのステージ・ママを演じている。 早口でまくしたてるアンナ・マニヤーニがもの凄かった。さて米国にもどって70年代に目を向けるとやはり優れた子役が多い。 テータム・オニールが『ペーパームーン』(ピーター・ボグダノビッチ)の不良少女でアカデミー賞を取ったのは1973年(10歳)。ブルック・シールズがルイ・マルの『プリティベビー』に主演したのは1978年(13歳)。 ジョディ・フォスターが『タクシー・ドライバー』(マーティン・スコセッシ)で少女売春婦を演じたのは1976年(14歳)。 こうやって並べていくとだいたい不良少女である。特にジョディ・フォスターはこんな役ばかりやっている。『タクシー・ドライバー』と同じ年に『ダウンタウン物語』(アラン・パーカー 1976)、ハイティーンになってもやはり不良少女で『フォクシー・レディ』(エイドリアン・ライン 1980)に出ている。 しかし極めつけは『アリスの恋』(マーティン・スコセッシ 1974)に出てくるアリゾナかどこかの女の子で、「変な奴だ(weiard)」という変な言葉を連発し、店に入れば万引きを試み、挙げ句に昼間からワインを飲んで警察に補導され、母親がもらい下げにくると「間抜けども!」と叫んで堂々と帰っていった。『タクシー・ドライバー』で演じたこわれゆく少女とは違って何ともいきいきとした不良少女であった。 名前がオードリーというのも笑ってしまう。


タクシー・ドライバー Taxi Driver

監督:マーティン・スコセッシ
キャスト:ロバート・デ・ニーロ【トラヴィス・ビックル】、シビル・シェパード【ベッツィー】
     ジョディ・フォスター【アイリス】   1976年/アメリカ/114分

大都会ニューヨークを舞台に夜の街を当てもなく走り続ける元海兵隊のタクシー運転手が、腐敗しきった現代社会に対する怒りや虚しさ、孤独感から徐々に精神を病み、自己顕示欲から過激な行動に走る姿を描く。 60年代後半から隆盛を極めたアメリカン・ニューシネマの代表的な作品であり、第26回カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。売春で生計を立てる少女アイリスを演じたジョディ・フォスターも話題を呼んだ。


第三十一話 ひとりぼっちのジェーン・フォンダ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 好きな役者を一人挙げろといわれれば、私は躊躇なくヘンリー・フォンダを挙げる。ブロードウェイの当たり役『ミスタア・ロバーツ』およびその映画版(ジョン・フォード/マーヴィン・ルロイ 1955)によって米国の国民的英雄であったことはいうまでもない。 ジェーン・フォンダはヘンリー・フォンダの娘である。つまり、国民的英雄ミスタア・ロバーツの娘である。ジェーン・フォンダの主演作品の中に『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック 1969)という作品がある。 これがこわれゆく女である。舞台となるのは1930年代のカリフォルニアで、ジェーン・フォンダは女優志願である。懸賞金のかかったダンス・マラソンに定職のないカップルが群がるように集まってくる。 ジェーン・フォンダは偶然知り合ったマイケル・サラザンを強引に誘ってこの胡散臭いコンテストに参加し優勝するが、懸賞金から必要経費を差し引かれて僅かの金しか手にすることはできない。 映画のオーディションに落ち、ダンスをし続けて疲労した上に金は無い。ところがここで映画は終わらない。これ以上生きていても意味がないと悟ったジェーン・フォンダは拳銃で自分を撃つようにマイケル・サラザンに依頼し、マイケル・サラザンはそれを実行する。 手を伸ばしてジェーン・フォンダのこめかみに銃口を当てるとゆっくり眼を閉じて引き金を引いた。暗い映画だが私は好きだった。このシーンの前に、すべてに絶望したジェーン・フォンダが不意に泣き崩れるシーンがある。 ストッキングが破れたという理由で泣き崩れるところが胸を突いてくる。ジェーン・フォンダはこの作品の後『コールガール』(アラン・パクラ 1971)でアカデミー賞を取り、フランスでゴダールやロージーと仕事をしてまた米国に戻っている。 同じ頃、ミスタア・ロバーツの方は傑作の誉れ高い『クラーレンス・ダロウ』の舞台に立っていた。一人芝居の舞台である。


ひとりぼっちの青春 They Shoot Horses, Don't They?

監督:シドニー・ポラック
キャスト:ジェーン・フォンダ【グロリア】、マイケル・サラザン【ロバート】
     ギグ・ヤング【ロッキー】 1969年/アメリカ/133分

1932年、不況下にハリウッドで行われた「マラソン・ダンス」の会場には、賞金を狙って多くの男女が集まっていた。ロバートもその1人で、彼は、大会のプロモーター兼司会者の手配により、グロリアと組んで踊ることになるのだが―。 不況時のアメリカの世相と、一攫千金を願ってコンテストに参加し、ぼろぼろになっていく男女を通して、世相の退廃と人生の孤独や狂気を描いた作品。コンテストの主催者に扮したギグ・ヤングはアカデミー賞助演男優賞を獲得した。