第五十話 フランス映画のアルメンドロス

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画ファンが監督で映画を見るのは常識である。また、脇役で見るのを楽しむファンも意外と多かろう。『レベッカ』(1940)や『イヴの総て』(1950)をジョージ・サンダースの悪役で楽しむのは確かに悪くない。 渋いところでは、衣装で見るというのもある。例えば私はベルトルッチの『暗殺の森』(1970)を見て以来、衣装デザイナーのジット・マグリーニという名前にずっと注目してきた。 ステファニア・サンドレッリのドレスが素晴らしかったからである。このドレスが、何と言うか古典的だがエロなのである。その他、女優で見るというのは王道であるからわざわざいうまでもないが、キャメラマンで見るというのも王道のひとつではなかろうか。 すでに見た映画をキャメラマンで見直すという、いわばレトロスペクティブの王道である。シモーヌ・シニョレの主演で『これからの人生』(モーシェ・ミズラヒ1977)という作品があった。 ジーン・セバーグの夫であったロマン・ギャリーの小説が原作である。私は中学生のときに一度見てそれきり見直す機会がない。ところが最近、必要があってネストール・アルメンドロスのフィルモグラフィーを調べていると、この映画のキャメラマンはアルメンドロスであった。 フランソワ・トリュフォーのお気に入りだったこのキャメラマンが『これからの人生』を撮っていたとは迂闊にも知らなかった。しかしアルメンドロスと分かれば確かにアルメンドロスの仕事であるという感じがしてくる。 アルメンドロスはトリュフォーの『恋愛日記』(1977)を撮ってから『これからの人生』を撮り、再びトリュフォーのところに戻って『緑色の部屋』(1978)『逃げ去る恋』(1977)を撮る。 米国で『天国の日々』(1978)を撮るのはその後である。トリュフォーの『緑色の部屋』は室内の撮影が重要な意味を持つ作品だが『これからの人生』もそうであった。とはいえ。じつは私はこの映画の物語をまったく記憶していない。 マダム・ローザ(シモーヌ・シニョレ)は、パリで若い娼婦たちの私生児の面倒をみている元娼婦の姉御で、物語の主題はこの初老の女とアラブ系の髪の黒い少年との交流であった。記憶に残っているのはこの程度である。 しかしマダム・ローザが暮らす部屋は、鮮明にとまではいかないがやはり記憶に残り続けている。それは『緑色の部屋』で亡き妻の記憶とともに生きるジュリアン・タヴェンヌ(フランソワ・トリュフォー)の秘密の部屋と同じ雰囲気の部屋だったのである。


これからの人生 la vie devant soi 

監督・脚本:モーシェ・ミズラヒ   撮影:ネストール・アルメンドロス
キャスト:シモーヌ・シニョレ【マダム・ローザ】、サミー・ベン・ユーブ【モモ】
     ムハメッド・ジネス【カディール】、クロード・ドーファン【Dr.カッツ】
     1977年/フランス/107分

マダム・ローザが住むベルビルは、ユダヤ人、アラブ人、黒人が隣接して暮らす町。 彼女は貧民救済院の子供たちと娼婦の息子モモの面倒をみている。マダム・ローザとモモの交流の中に戦争の記憶、人種問題が描かれる文芸的な名編。 撮影はネストール・アルメンドロス、音楽はミシェル・ルグランが担当。アカデミー賞 外国語映画賞受賞作品。


第四十九話 女の中の女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 真の映画監督とは何であろうか。人によって基準は色々あると思うが私の独断的基準をいえばカットをゆっくり撮ることのできる監督こそ真の映画監督であるといわねばならない。 ルキノ・ヴィスコンティの『山猫』(1960)はじつにゆっくり撮られている。ジョン・フォードの『静かなる男』(1952)もじつにゆっくり撮られている。またテオ・アンゲロプロスの『永遠と一日』(1998)もじつにゆっくり撮られている。 これほどゆっくり撮って長いと感じないところが真の映画監督である理由である。長いと感じないどころか短いと感じることすらある。もっと見たいと思うのにすぐ終わってしまうのだ。『山猫』が160分というのはいかにも短すぎる。 ゆっくり撮られているという感じは、語られるべき物語に比較してカットが少なく、したがってワンカットが長いというところから来ている。カットはもはや物語に従属することを止め生の断片を満遍なくとらえるものになっている。 それらがあまりにリアルで素晴らしいので観客はもっと見たいと思うわけである。『山猫』でクラウディア・カルディナーレが下品に笑い続けるカットなどは物語の観点からすれば冗長である。 ところが私のような者はこれが見たいがために『山猫』を始めから終わりまで見る。そういうカットである。これほどゆっくり撮ることのできる監督が何かせかせか撮っている感じがするのが『ベリッシマ』(1951)で、なにしろカットが短い。 室内でのキャメラの移動が多く、速い。ひとつのシーンを構成するカット数もおそらく多い。まるで1940年代のアメリカ映画のようである。上映時間も115分とヴィスコンティにしては短い。どうしてこんなことになっているのであろうか。 理由は意外と簡単で、これがアンナ・マニヤーニの映画だからである。十歳にもならない一人娘をスターにしようと撮影所のオーディションに通うローマのステージママがアンナ・マニヤーニで、娘を売り込むために早口で喋りまくり、家でも外でもひとつの場所にじっとしていることができずに絶えず動き回り、喋り続ける。 見ているうちにアンナ・マニヤーニこそ女の中の女という感じがしてくる。彼女を撮るのにゆっくりキャメラを回すことなど不可能である。そんなことをしてはアンナ・マニヤーニという存在に対して失礼であるといってもよい。 それゆえ、まるでアメリカ映画のような『ベリッシマ』はアンナ・マニヤーニに対するヴスコンティの礼儀であるといわねばならない。


ベリッシマ Bellissima 

監督:ルキノ・ヴィスコンティ
キャスト:アンナ・マニヤーニ【マッダーレナ】、ティーナ・アピチェッラ【マリア】
     ヴァルテル・キアーリ【アンノヴァッツィ】、ガストーネ・レンツェッリ【スパルタコ】
     1951年/イタリア/115分

チネチッタ撮影所での子役オーディションにマッダレーナは夫のスパルタコに内緒で娘のマリアを連れて行く。一次審査を通過後、演技の先生を雇い、バレエを習わせ、衣裳を新調し、 さらに他の母親がコネを使っていると聞き、スタッフのアンノヴァッツィに5万リラを渡して根回しを頼む。ところが彼はその金でバイクを買っていて…。ローマが舞台のヴィスコンティ唯一のコメディ。


第四十八話 気狂いベートーヴェン

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ヴィム・ヴェンダースはあるインタヴューの中でマーラーの音楽がバーナード・ハーマンの音楽によく似ていると述べている。バーナード・ハーマンといえばヒチコックお気に入りの作曲家で、映画ファンがこの名を聞けば『サイコ』(1960)の管弦四重奏がすぐにも頭の中に響き始めるであろう。 これに対しグスタフ・マーラーは十九世紀後半のウィーンの作曲家である。だからヴェンダースの言い方は本当のところはおかしい。歴史的な順序を無視しているからである。 本来ならばバーナード・ハーマンがマーラーに似ているというべきなのだ。興味深いのはヴェンダースがそういう歴史的な順序にまったく関心を払わずにマーラーはバーナード・ハーマンに似ていると主張して平然としているように見えることである。 つまり映画でしかものを考えられない人間がここにまた一人存在しているわけである。ヴェンダースのような人にとってはマーラーがバーナード・ハーマンに似ているのでなければならない。 その逆は考えられないからである。こういう監督の撮った映画ならば『まわり道』(1974)のように少々退屈な作品でも真剣に見てしまう。ところで、クラシック音楽あるいはクラシックをベースにした音楽が映画に合うというのは事実である。 無論クラシック音楽を映画に使うには才能の問題というものがある。『気狂いピエロ』(1965)の音楽を担当したのはアントワーヌ・デュアメルである。 基本的にはオリジナル・スコアだがベートーヴェンの『運命』なども使っている。「第二章、絶望」というジャン=ポール・ベルモンドのナレーションに続き、いかがわしいパーティーの始まる前の夜更けの街のカットが映し出されるときの音楽がベートーヴェンの『運命』である。 こんなカットを見るとまるでベートーヴェンの『運命』がこの映画のために作曲されたかのような錯覚にとらえられてしまう。これはデュアメルの発案だったのか、それとも例によってゴダールの独断的アイデアだったのか。 いずれにしても『運命』が映画に使われたというよりむしろ映画音楽としての『運命』を観客は聴く。「第三章、マリアンヌ・ルノワール」というナレーションに合わせて挿入されるルノワールの裸婦像のカットがゴダールのイメージに同化してしまっているのと同様にベートーヴェンもこの作品の一部になっている。 だからヴェンダースならばきっとこういうであろう。ベートーヴェンはアントワーヌ・デュアメルに似ている、と。


気狂いピエロ Pierrot Le Fou 

監督:ジャン=リュック・ゴダール
キャスト:ジャン=ポール・ベルモンド【フェルディナン・グリフォン】、
     アンナ・カリーナ【マリアンヌ・ルノワール】、
     1965年/フランス・イタリア/110分

「気狂いピエロ」と呼ばれるフェルディナンは不幸な結婚をし、自らの退屈な生活から逃げ出したい衝動に駆られていた。ある日、昔の愛人であるマリアンヌと出会い一夜を過ごすが、翌朝見知らぬ男の死体を見つけ、彼女と共に逃避行を始める。 ヌーヴェルヴァーグを代表する作品の1つで、俳優ジャン=ピエール・レオが助監督をつとめた。


第四十七話 霧の中のアンゲロプロス

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 子供だけで未知の場所に行くことは何が起こるかまったく予想もできない経験である。映画にとってこれほど興味深い題材はない。子供が自分達だけでどこかへ行くことそれ自体が一種のサスペンスになりうるからである。 ところがそれを真のサスペンスとして見せることは実際には容易ではないようである。子供にとっては列車に乗ること自体がすでに恐ろしいことである。どこへ行くのか分からないからである。 ところがこの恐ろしさを撮ることができない。目的地を示した時刻表を見てもこの列車が本当にそこへ行くのか確信できないというのが子供の心理である。この心理を映画は目に見えるようにしなければならない。 目の前のホームに停車している列車と目的地を頭の中で結びつけることができないがゆえに子供は不安になるわけだがこの不安は当然である。列車とその目的地は存在としては別々でそれらを結びつけているのは人間の思考にすぎないからである。 無関係の存在を当然のように結びつける思考法は大人の思考法で社会生活には必要なものだが映画にとっては有害である。存在そのものは断片的に存在するという事実をキャメラは見ることができるはずなのに、大人の思考法によってこういうキャメラ本来の機能は十分に活かされなくなってしまうからである。 キャメラは存在を断片としてありのままに見るという点を深く理解している監督だけが、子供が列車に乗るというただそれだけの出来事をサスペンスとして見せることができるのである。 アンゲロプロスの『霧の中の風景』(1988)はギリシャに暮らす姉と弟が父親の住むドイツを目指して列車に乗り込むシーンから始まる。いきなりクライマックスが来たような撮り方である。 ホームに佇む二人の子供をキャメラは背後から撮る。列車が入ってくる。行き先のアナウンスが流れる。二人の子供は列車に乗らず帰ってくる。時刻が夜というのが不安を掻き立てる。 次の日にこの二人はまた駅にやってくる。今度こそという決意でホームに立っている。ところが列車が入ってくると二人はまたもや躊躇し始める。乗るのか乗らないのかがサスペンスになってくる。 これが映画である。二人がついに列車に飛び乗る。次にキャメラがとらえるのは子供達の安堵の表情である。そこに音楽が流れてくる。作曲はエレニ・カラインドルー。 アンゲロプロスお気に入りのこの作曲家の悲劇的な旋律に乗って物語が始まる。まさにいま映画が始まったという感じがするカットである。


霧の中の風景 Topio Stin Omichli 

監督:テオ・アンゲロプロス
キャスト:ミカリス・ゼーケ【アレクサンドロス】、タニア・パライオログウ【ヴーラ】
     ストラトス・ジョルジョグロウ【オレステス】
     1988年/ギリシャ・フランス・イタリア/127分

アテネの母子家庭に育った12才の少女ヴーラと、5才の弟アレクサンドロスは、父親の名前も顔も知らない。父親は隣国ドイツにいるという母親の言葉も、大いに疑わしい。 それでも、父に一目会うことが唯一の願いである姉弟は、雲が重く垂れこめる冬の日に、金も持たずに国際列車に乗り込んだ。


第四十六話 主婦の友

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『シネマ・ヴェリテ』の第十三話で私は『アリスの恋』について書いたが、その中で専業主婦というのは専業主婦という地位そのものによってすでにこわれゆく女であると述べた。『アリスの恋』のエレン・バースティンが専業主婦の役を演じていたからである。 専業主婦がこわれゆく女となる理由を私はそこであえて述べなかった。自明のことに思われたからである。しかしあらためて考え直してみると、その理由はおそらく次のようなものである。 存在を崩壊へと導くのは社会制度による生への圧力であると考えられるが、社会制度とはもともと男の便宜のために作り出されたものであるがゆえに、その圧力によって崩壊していくのはつねに女たち、とりわけ主婦という地位にある女たちだからである、と。 さて、林芙美子の小説を原作に持つ『めし』(成瀬巳喜男 1951)はまさに専業主婦というこわれゆく女の物語である。 高度成長を目前にした戦後のサラリーマン社会の中で、専業主婦という存在はその意味を変えていく。『モダンガール論』の斉藤美奈子が指摘したように、戦前の主婦が生活に不自由しない「奥様」であったのに対して、戦後のサラリーマン家庭における主婦は主人に仕える雑用係にすぎない。 ところがその主人はといえば会社に仕えているにすぎないのである。戦前の『妻よ薔薇のやうに』(成瀬巳喜男 1935)と『めし』を見比べればこの点は一目瞭然であろう。『めし』で専業主婦というこわれゆく女を演じたのは原節子であった。 私の好みだけでいえば、小津安二郎のいくつかの作品における原節子よりもこの作品の原節子の方が何と言うか原節子らしいという感じがする。作品そのものはやはり名作という他にないであろう。 私が注目するのはこの作品が原節子のボイスオーバーによって語られていくという形式である。ボイスオーバーはフィルム・ノワールに多用された形式であって、すでに悲劇的な結末を見た出来事を回顧的に語るものである。 したがってボイスオーバーの声は通常は「・・・だった」という過去形になっている。「その女に出会ってしまったのが俺の運の尽きだった」とか。 ところが『めし』のボイスオーバーはすべて現在形なのである。「・・・でございます」といういかにも昭和二十年代風の口調だが、現在形という時制が『めし』にはいかにもよく合っている。 原節子が演じたのは崩壊寸前のこわれゆく女であって、すでに崩壊してしまった女ではないからである。


めし

監督: 成瀬巳喜男  原作:林芙美子  監修:川端康成
キャスト:原節子【岡本三千代】、上原謙【岡本初之輔】、島崎雪子【村田里子】
     杉葉子【村田光子】
     1935年/日本/97分

大恋愛の末に結ばれた初之輔と三千代の夫婦は結婚から5年、倦怠期に突入し、些細なことで衝突が続くようになっていた。 そこへ初之輔の姪、里子が家出をしてきて…。当時の成瀬は、戦後の「スランプ」と目される時期で、作品の質、興行収入共に振るわない低空飛行が続いていたが、 この作品は公開後、大きな興行的成功を収め、成瀬の復活を世間に印象付けた。


第四十五話 チャップリンの社会批判

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 チャップリンの映画人生は1910年代のドタバタ喜劇から始まっている。英国人であるチャップリンはもともとフレッド・カルノー率いるヴォードビルの一座の花形役者だった。 米国で巡業中にマック・セネットがこの花形役者の人気に眼をつけた。セネットのキーストン・フィルムとの契約がチャップリンの映画人生の始まりである。キーストンを出発点にして、チャップリンはエッサネイ、ミューチュアル、ファースト・ナショナルと渡り歩くことになる。 グリフィス等とともにユナイトを設立するのは1919年である。続く1920年代といえばまさにハリウッド黄金期である。傑作『黄金狂時代』は1925年の作品である。 つまり、チャップリンの絶頂期はハリウッドのそれと一致するのである。1930年代から40年代には『モダン・タイムズ』『独裁者』『殺人狂時代』を撮っている。 社会風刺あるいは社会批判の傾向が強まっているのは明白である。しかしチャプリンの映画はもともとそうだったのである。今見直すとその点がいっそうはっきりするであろう。 キーストン時代からのスタイルである浮浪者とは要するに社会的弱者である。そしてこの浮浪者の相手はいつも警察官である。社会的弱者と権力との対立という構図が中心にあることはすでにはっきりしている。 チャップリンの作品における女性の取扱いもこういう構図の中に収まっている。女性とは社会的弱者である。したがってまた浮浪者の相棒である。 社会的弱者の面は、例えば『キッド』(1921)のエドナ・パーヴィアンスに見出すことができる。この作品は慈善病院から出てきた母親がたまたま停めてあった高級車に私生児を置き去りにするシーンから始まっていた。 また浮浪者の相棒という面なら『移民』(1917)のエドナ・パーヴィアンスや『モダン・タイムズ』(1936)のポーレット・ゴダードに見出すことができる。ところで、チャップリンにおいて社会的弱者は最後には救済される。 つまりハッピーエンドである。しかし自身が出演しなかった『巴里の女性』(1923)だけは違っている。駆け落ちに失敗して高級娼婦となった女が男に再会しあらためて結婚を申し込まれるが、彼女の職業を知った男は逆上してこの女を捨てる。 その仕打ちに女はなす術をもたない。ただ贅沢な生活の中で曖昧に崩壊していくだけである。メロドラマだが基本的には社会批判であることに変わりない。こわれゆく女を演じたエドナ・パーヴィアンスが今見てもやはり素晴らしい。


巴里の女性 A Woman of Paris

監督・脚本・製作・音楽: チャールズ・チャップリン
キャスト:エドナ・パーヴァイアンス【マリー・サン・クレール】
     アドルフ・マンジュー【ピエール・ルヴェル】、カール・ミラー【ジャン・ミレ】      1923年/アメリカ/91分(オリジナル版)/81分(1976年サウンド版)

フランスの片田舎。マリーは結婚を反対され、恋人のジャンとパリへ駆け落ちしようとするが、父親の死でジャンは留まり、心変わりだと勘違いしたマリーは一人旅立つ。 ようやくジャンがパリにやってきた頃、マリーはピエールの愛人になっていて…。チャップリンが初めて出演なしで監督に専念した作品で、最高傑作との呼び声も高い。


第四十四話 ポランスキーの男と女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1950年代の終わりから60年代にかけてフランスでは批評家出身の若い監督たちによるまったく新しい映画作りが開始され成功をおさめていったことはすでに映画史の一部である。 いうまでもなくヌーヴェル・ヴァーグと称された運動である。ジャン=リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮ったのは1959年である。同じ年、米国ではジョン・カサヴェテスが『アメリカの影』を撮っている。 フランスのヌーヴェル・ヴァーグ以上に新しい感覚の作品である。また日本ではその翌年に大島渚が『青春残酷物語』を撮っている。じつはこうした動きは世界各国で生じていたのである。 ポーランドにおける新しい動きの中にロマン・ポランスキーがいたことはいまあらためて振り返っておく価値があるであろう。ポランスキーが傑作『水の中のナイフ』を撮ったのは1962年である。 この作品ですでに、男に対する女の精神的優位を視覚的に表現するというポランスキーのテーマが徹底されている。女の精神的優位とはポランスキーが見出した現実である。 無論このような現実は社会制度によって覆い隠されている。したがって、その現実は社会をありのままに再現しても見えてくることはなく、キャメラによって意図的に構成されなければならない。 ちょっと理屈っぽくなるが、映画イメージとは社会の投影なのではなくキャメラによって構成される現実なのだという点が理解されていなければこういうテーマは追求できないであろう。 私の説では、ゴダールやカサヴェテスに通底しているのも映画イメージに対するこのような見方である。そこには、現実とは構成されることではじめて眼に見えるものになるのだという一種の逆説がある。 さて、女の精神的優位という現実を眼に見えるようにするためにポランスキーが採用したのは三角関係という古い図式である。ボート遊びに出た夫婦のところに青年が紛れ込んでくる。 社会的には妻の優位に立つ夫の方が青年に対して大人の強さを誇示することで妻にもおのれの優位を見せつけるという構図ができる。ところがこれが無惨な結末をまねき、男は責任を取ることができない。 むしろ女の判断が正しかったということが明白に示されるのである。しかし待てよ、こういう筋書きの映画は他にも見た憶えがある。やっぱりそうだ、『死と乙女』(1995)があった。 また、少し変形を被った形では『赤い航路』(1992)というのもあった。もちろん二本ともロマン・ポランスキー作品である。


水の中のナイフ Nóż w wodzie

監督: ロマン・ポランスキー
キャスト:レオン・ニェムチック【アンドジェイ】、ヨランタ・ウメッカ【クリスチナ】
     ズィグムント・マラノウィッチ【青年】 1962年/ポーランド/94分

鬼才ポランスキーの名を世界に知らしめた長編処女作。裕福な生活を楽しむアンドジェイとクリスチナの夫婦が、湖へバカンスに行く途中で貧しげな青年を車に乗せた。 湖上に浮かぶ自家用ヨットを舞台に、中年男と若い妻、ヒッチハイクの青年の葛藤と心の空虚を描く。ヴェネツィア国際映画祭国際批評家連盟賞受賞作。 今やポーランド映画界の巨匠となった、イェジー・スコリモフスキが共同脚本に参加している。


第四十三話 誰もいない街

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ものには必ず見え方というものがある。テーブルに座って食事をしていればテーブルの脚は普通見えないが、キッチンから料理を運んでくるときにはそれが視野に入っているであろう。 つまり、おのれの身体の位置によってものの見え方というのは変わっていくわけである。どんな対象でも人間の身体との関係で現れてくるから、ものにはそれほどたくさんの見え方があるわけではない。 人間が最も見慣れた対象といえばやはり人間であろう。人間が人間と関わるのに適切な距離はだいたい決まっている。だからそれ以外の仕方ではあまり人間というものを誰も見たことがない。 映画がこういった日常の再現ではないことは明らかである。でもどうしてであろうか。無論映画が作り話だからではない。むしろ映画がキャメラで撮られるという事実にもとづいている。 なぜならキャメラには日常的なものの見え方を決めているものが欠けているからである。この点はめったに指摘されないが非常に重要である。キャメラには身体というものが欠けているのである。 身体が欠けているがゆえに、身体をもった存在には決して見えないような仕方でものが見える。例えばクローズ・アップによって女優の顔をとらえることはキャメラでなければできないのである。 ここまでくると当たり前の話になってしまう。しかし、映画を見るということは人間が見たのではない光景を見ることなのだという当たり前のことは意外と意識されていない。 映画とはキャメラの前に現実に存在したものの再現だと信じられているからである。しかし、誰も見なかったようなものが現実に存在したといいうるであろうか。 むしろキャメラに撮られることで現実に存在するようになった光景というものがあるのではないか。理屈がすっかり長くなってしまったが、じつはアキ・カウリスマキについて考えている。 アキ・カウリスマキの作品を見てつねに感じるのはある種の寂しさである。『過去のない男』(2002)や『街のあかり』(2006)などのように、身寄りのない孤独な人間の物語ということもあるが、決してキャメラを動かさずに撮られた街のカットの積み重ねがこういう寂しさをもたらしているという感じがする。 人間の身体はつねに動いているから、固定キャメラのカットが連鎖することで主人公は誰からも見られていない(関心を持たれていない)孤独な存在として見えてくる。 誰もいない街に独り漂う存在というカウリスマキ独特の世界がこうして成立するのである。


過去のない男 Mies vailla menneisyyttä

監督・脚本 : アキ・カウリスマキ
キャスト:カティ・オウティネン【イルマ】、マルック・ペルトラ【過去のない男】
     アンニッキ・タハティ【救世軍のマネージャー】
     2002年/フィンランド、ドイツ、フランス/97分

頭を打たれたせいで過去の記憶が一切なく、自分が何者かもわからない男。その辺の住民の口利きで空いているコンテナに住むことになった彼は、ある日救世軍によって振る舞われるスープを飲みに行き、イルマという女性と運命的な出会いをする。 次第に親しくなっていく2人だったが、ひょんな出来事から男の過去が明らかになり…!


第四十二話 STOP AND START

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画にはストーリーというものがある。当たり前のことである。ゴダールのような監督の作品にもやはりストーリーはある。だたしそのストーリーは観客の興味を惹くようなものであるとは言い難いものである。 無論わざとそうしているわけである。それでも面白いのだからすごいものである。物語に由来するのではないその面白さは映画そのものの面白さというほかないであろう。 もっとも観客の神経にも限界というものがあって、例えば私のような者は70年代のゴダールの作品にはもうついていけないというのが正直なところである。『東風』(1970)に私は本気で退屈した。 ストーリーがなくても映画は面白いといっていられるのはせいぜい60年代のゴダールまでである。ところがこの60年代ゴダールというのが最高に面白いわけである。 長編第一作『勝手にしやがれ』(1959)から、アンナ・カリーナとの最後の仕事になった『メイド・イン・USA』(1966)まではどれも素晴らしいが、私が特に執着するのは『男と女のいる舗道』(1962)、『恋人のいる時間』(1964)、『男性・女性』(1966)である。 これらの作品におけるストーリーは、筋道にそって順次局面が展開していくようなものではなく、ちょうどわれわれの日常生活がそうであるように同じことのくり返しとちょっとした新しい局面とが論理的な関係なしに続いていくようなものになっている。 『男と女のいる舗道』のアンナ・カリーナは子供を夫に渡して娼婦となる。『恋人のいる時間』のマーシャ・メリルは夫と子供と生活しながら不倫。『男性・女性』のシャンタル・ゴヤは歌手で、交際相手の青年(ジャン=ピエール・レオー)の子供を妊娠した直後にその青年は死亡する。 娼婦も、不倫する人妻も、人気歌手も、時間的には不規則な生活を強いられる存在である。生活は断片化し、ひとつの筋にまとめることなどできない。それぞれの出来事にはもちろん時間的な順序があるが、順序があるだけである。 そこには物語として語りうるような、筋にそった論理的な展開が欠けている。スーザン・ソンタグはかつてゴダールのリズムを「ストップ・アンド・スタート」と評していた。 人間はじつはこんな風におのれの生を生きているのだ。しかしそれらの生の断片を物語として組み立てて連続した展開があるように思い込んでいる。 それゆえ人間の生の現実はキャメラによって構成されなければ見ることができない。ゴダールの面白さはその現実の持っている新鮮さにほかならないであろう。


女と男のいる舗道 Vivre sa vie: Film en douze tableaux

監督・脚本 : ジャン=リュック・ゴダール
キャスト:アンナ・カリーナ【ナナ・クランフランケンハイム】、サディ・レボ【ラウール】
     アンドレ・S・ラバルト【ポール】   1962年/フランス/84分

ゴダールの長篇劇映画第4作。原題は「自分の人生を生きる、12のタブローに描かれた映画」の意。『女は女である』についでアンナ・カリーナが出演したゴダール作品で、カリーナとの結婚後第2作である。 マルセル・サコット判事が上梓した『売春婦のいる場所』の記述をヒントに、ゴダールがオリジナル脚本を執筆した。 溝口健二監督の遺作『赤線地帯』の影響なしには本作は存在しないとされている。


第四十一話 身体と声

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画を見てときどき考えることがある。映画でイメージを見ているのであろうか、それとも台詞を聞いているのであろうか。無論その両方であろう。 というより、「映画を見る」という表現からして主になるのはやはりイメージを見ることで、台詞は役者の身体イメージにつねに結びついて聞き取られているのであろう。いや、始めから理屈っぽくなってしまった。 しかし、この点を確認する必要があったのは、台詞を聞くことがむしろ興味の中心になっているような作品が存在するからである。溝口健二といえば『祇園の姉妹』『浪華哀歌』(共に1936)である。 どちらも永田雅一の第一映画製作。また主演はどちらも山田五十鈴である。この二作品は山田五十鈴の台詞に聞き入っているうちに物語が進み、もっと見たい、いやもっと聞きたいと思う間もなく終わってしまうという共通点がある。 つまり、主なっているのは台詞を聞き取ることで、山田五十鈴その他出演者の身体イメージは台詞を聞くきっかけのようなものにさえ見える。少なくとも私にとってはそうであった。 特に、自分に言い寄ってくる金を持った中年男を軽く丸め込む台詞は何度聞いても痛快そのものである。しかし、私はここで立ち止まってしまう。また理屈っぽくなるが、これらの作品における身体イメージは台詞という主役の後ろに隠れているものであろうか。 身体イメージの役割は声に活躍の場を提供するということにすぎないのであろうか。もし本当にそうであれば映画を「見る」という表現は一度考え直さなければならなくなるだろう。 無論そんなことにはならないというのが結局私のたどりついた結論である。そもそも台詞とは相手に向かって話されるものである。 その相手がどこにいるのか、立っているのか座っているのか、どんな人物なのか、これらは台詞の背景であるどころか台詞の意味そのものなのであって、その点で決して台詞が<主>で身体イメージは<従>ということにはならないであろう。 そんなふうに見えてしまうのは山田五十鈴の台詞があまりに素晴らしいからという以外にない。あくまで映画とは身体をどう撮るかであって、山田五十鈴のような女優の存在がその撮り方を深く変容させてしまっているのだ。 付け加えれば、同じことがアンナ・カリーナにもいえる。デンマーク出身のこの女優が話すフランスは決して流暢ではない。ゴダールの断片的なカットのつなぎは彼女の声に出会うことでいっそう加速されていったに違いないのである。


浪華哀歌 ≪なにわエレジー≫

監督:溝口健二
キャスト:山田五十鈴【村井アヤ子】、志賀廼家弁慶【社長(麻居惣之助)】
     梅村蓉子【社長の妻(すみ子)】   1936年/日本/71分

 主人公アヤ子は、会社の金を横領した父親を助けるために、自分の勤める会社の社長の愛人になる。さらに社長の友人の株屋に言い寄って金をだまし取り、美人局を演じて逮捕された彼女に対し、家族の目は冷たかった…。 溝口は山田の生い立ちや家庭環境を調べ、彼女の起用を前提に脚本を書かせたという。演技指導は苛烈を極めたが、山田はそれに耐え、脚本に描かれた“新しい女”を見事演じきった。