第七十話 健さんのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロードムービーといえばアメリカ映画と相場が決まっている。もちろん、ヨーロッパの映画にロードムービーと呼ぶことのできる作品がないわけではない。 フェリーニの『道』(1954)などはれっきとしたロードムービーである。またドイツにはヴィム・ヴェンダースという孤高のロードムービー・メーカーが存在している。 とはいえ、これらはどちらかといえば例外で、ヨーロッパではロードムービーはポピュラーなジャンルではない。では米国と並ぶ自動車大国の日本ではどうかといえば、やはりロードムービーはそれほどポピュラーではない。 ロードムービーというのはアメリカ映画の発想なのであろうか。日本のロードムービーというと、『幸福の黄色いハンカチ』(1977)がある。 が、原作はピート・ハミルである。車で移動することがそのまま物語を構成するというのはやはり米国人の発想であるらしい。 しかし、この作品が記憶に価するのは、米国人の原作を手際よく日本の文脈に移し替え、翻案しているからではない。むしろ、山田洋次監督は北海道を舞台にしたアメリカ映画を撮っているのである。 ロードムービーはアメリカ映画でなければならないとすれば、この映画も当然アメリカ映画でなければならない。私の推測だが、この監督にはそのような認識があったはずである。 それゆえ、『幸福の黄色いハンカチ』を日本で撮られたアメリカ映画として見直してみる必要がある。するとすぐに気がつくのは、この映画がロードムービーの二つの規則の上に成り立っているという点である。 第一に、恋愛を描いてはらない。なぜなら、恋愛は移動を停止させるから。第二に、映画を終わらせるのは恋愛でなければならない。 なぜなら、ロードムービーの終わりは移動の終わりであり、移動を終わらせるのは恋愛だからである。アメリカ映画ではロードムービーといえばすべてこれである。 だからアメリカ映画としてのロードムービーを撮るためには、この二つの規則が遵守されていなければならない。では『幸福の黄色いハンカチ』はどうか。 第一に、武田鉄矢と桃井かおりのカップルは途中から高倉健が車に乗ってきたことによって恋愛を阻まれる。 第二に、映画の終わりで高倉健は倍賞千恵子と再会するが、それは明らかに恋愛として演出されている。おまけに高倉健という厄介者がいなくなると武田鉄矢は思惑通り桃井かおりと結ばれる。 ほらこのとおり、完璧なアメリカ映画である。


幸福の黄色いハンカチ

監督・脚本:山田洋次
キャスト:高倉健、倍賞千恵子、武田鉄矢、桃井かおり
1977年/日本/108分

1971年、ニューヨーク・ポスト紙に掲載されたコラムをベースに、山田洋次監督が製作した日本のロードムービーの代表作。 山田は本作品の展開についての着想を、1953年のアメリカ映画『シェーン』から得ている。 シンプルながら観衆の心情に深く訴えかけるストーリーが高い評価を得て、第1回日本アカデミー賞や第51回キネマ旬報賞、第32回毎日映画コンクールなど、同年の国内における映画賞を総なめにした。


第六十九話 安全第一

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロイドの『要心無用』(1923)といえば、ハロルド・ロイドが百貨店のビルの外壁をロッククライミングのようによじのぼっていき、最上階の尖塔の部分に取り付けられた時計の針にスーツ姿でぶら下がるというラストシーンがあまりにも有名である。 ロイドがつねに演じた上昇志向のサラリーマンというキャラクターが、この危険なスタントを物語の上で正当化している。つまり、彼は出世のためにあえて危険を冒す青年を演じているのである。 ロイドの作品は40年程前に東宝東和の「プレイロイド」という興行でまとめて公開されたことがある。今でいうレトロスペクティヴである。 私が小学生の70年代には、そのフィルムが2番館、3番館に流れてきて、正月の3本立て興行などでまだかかっていた。私はそれで子供の時にこの作品を見ているが、そのときパンフレットも買ってもらった。 たしか百五十円か二百円で、双葉十三郎氏と淀川長治氏が解説を書いていた。作品そのものは子供でも分かる。ところが『要心無用』という題の原題である SAFETY LAST というのがつい最近まで分からなかった。 パンフレットの解説を読むと、この危険なラストシーンをロイドはスタントマンなしで演じたということである。セーフティーは「安全」という意味だから、セーフティー・ラストで安全なラストシーン。 これでは意味が分からない。しかし、英語に SAFETY FIRST という表現があることを知ってようやくその意味が分かった。SAFETY FIRST は日本語にもある。 よく工事現場で見かける「安全第一」という標語である。SAFETY LAST はこの標語のいわばパロディで、直訳すれば「安全最後」、もっと分かりやすく訳すと「安全後回し」ということになる。 安全など後回しで、出世が第一。そういう命がけの上昇志向を表現した題である。高いところから落ちるというサスペンスの発想は、このようにサイレント時代からあったのである。 チャップリンも『黄金狂時代』(1925)では崖っぷちの山小屋でこの素材を使っている。この素材はその後も映画の歴史の中で延々と使われてきた。考えてみると、これこそ映画である。 ヒッチコックの『海外特派員』(1940)、『逃走迷路』(1942)、『めまい』(1958)、『北北西に進路をとれ』(1959)には、すべてこの素材が組み込まれていることはもはやつけ加える必要もないことである。


要心無用 SAFETY LAST!

監督・脚本:サミュエル・テイラー
キャスト:ハロルド・ロイド、ミルドレッド・デイヴィス、ビル・ストローザー
1923年/アメリカ/73分

田舎から都会に出てきてデパートに就職した青年が主人公。下働きのくせに田舎の恋人にはさぞ自分が出世しているような手紙を書く。 ところが恋人が青年に会いに都会にやってきてしまい…。チャールズ・チャップリン、バスター・キートンと並ぶサイレント映画時代の三大喜劇王の一人ハロルド・ロイドの代表作。 まだ合成技術が未発達な時代、ほぼスタントなしで演じたビル登りのシーンにはハラハラさせられっぱなしである。


第六十八話 暗殺のキャメラ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ヌーヴェル・ヴァーグ以後を代表する監督といえば、ベルナルド・ベルトルッチは間違いなくそのひとりである。初期の傑作『暗殺の森』(1970)が発表されたとき、ゴダールはすでに商業映画から撤退していた。 だが文字通りヌーヴェル・ヴァーグを見て育った世代の監督たちがデビューするのにはまだ間がある。ジャン=ピエール・レオーがアイドルだったというアキ・カウリスマキが『真夜中の虹』(1988)を撮るのはこの18年後である。 1940年生まれのベルトルッチは、ヨーロッパの映画史ではそういう中間的な世代である。ベルトルッチが活躍したのは70年代ということになるが、この時代は映画が大作主義へと転換していく時代であった。 スピルバーグが『ジョーズ』を撮るのは1975年である。ベルトルッチ自身、1980年代になると『ラスト・エンペラー』(1987)のような金のかかった超大作を撮るようになる。『暗殺の森』は、そういう映画史の流れから見ても中間的な作品である。 超大作でもなく、かといってヌーヴェル・ヴァーグ流の個人的な映画作りに徹するのでもなく、既定の映画の枠組みのなかで自分の主題を追求している。『暗殺の森』の素晴らしさは、商業ベースで自分の作品を作っているという、ある意味で理想的な映画のもつ素晴らしさである。 撮影監督を担当したのはヴィットリオ・ストラーロである。このキャメラマンの撮るパノラマ的なカットは何度見ても素晴らしい。ファシスト党本部のただただ広い大理石のフロアーのカット。 要人暗殺の使命を受けたジャン=ルイ・トランチニャンが妻(ステファニア・サンドレッリ)とパリに滞在する際に立ち寄るエッフェル塔のカット。 巨大なものをこれほど的確に捉えるキャメラマンは、ストラーロしかいない。『ラスト・エンペラー』もストラーロの撮影である。 また、コッポラの『地獄の黙示録』(1979)、『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)の撮影もストラーロが担当している。 私の知る限り、ストラーロのキャメラに匹敵するのは、ヴィスコンティのお気に入りだったジョゼッペ・ロトゥンノくらいである。彼らの魅力は、巨大な対象をフィルムに収めていく技術の高さである。 あまりに巨大な対象が、彼らのキャメラによってリアルにとらえられると、まるで幻想のように現出してくる。いや、巨大な対象のもつ幻想的な性質をリアルに現出させているというべきであろうか。 この幻想的なリアルさこそ『暗殺の森』の最大の魅力といいうるのである。


暗殺の森 Il conformista

監督・脚本:ベルナルド・ベルトルッチ   撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
キャスト:ジャン=ルイ・トランティニャン【マルチェッロ・クレリチ】、
     ステファニア・サンドレッリ【ジュリア】、ドミニク・サンダ【クアドリ教授夫人】
1970年/イタリア・フランス・西ドイツ/115分

現代イタリアを代表する作家モラヴィアの「孤独な青年」を基に、過去の罪にさいなまれながらファシズムに傾倒していく男の孤独と頽廃を官能的に描いた一編。「地獄の黙示録」(‘79)でアカデミー撮影賞に輝いた名キャメラマン、ヴィットリオ・ストラーロによる奇跡の映像美と19歳でヨーロッパのデカダンスを身にまとったドミニク・サンダの美貌に心をうばわれない者はいないであろう。


第六十七話 未来の時間

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画音楽には追憶を誘うような旋律がしばしば存在する。アンゲロプロスの『永遠と一日』(1998)のオープニングで聴こえてくるエレニ・カラインドルーの音楽はまさにそのような旋律をもっていた。 この旋律によって観客はいっきに過去のなかへ引きずり込まれる。この意味でじつに甘美な旋律である。また作品そのものの主題をじつに的確に提示する旋律である。 これとは逆に、未来を志向するような旋律も映画音楽には存在する。ただし映画音楽である以上、作品そのものがそのような主題をもっているのでなければならない。 そういう映画音楽の代表はサスペンス映画の音楽である。これから何が起こるか分からない。これが未来という時間の特性である。それを不安として意味づけ、強調するのがこの種の映画音楽である。 バーナード・ハーマンやラロ・シフリンのような作曲家が得意とした分野である。観客の不安感を煽る音楽を『サイコ』や『ダーティハリー』などではたっぷり聴くことができる。 しかし、これから何が起こるか分からないという時間感覚は、逆に希望という意味をもつこともできる。フランク・キャプラなどが得意とした時間感覚である。 キャプラの作品には善良な意志が必ず良き結果をもたらすという信念を見ることができる。もっとも、ほとんどの人間が抱くのはそのような明確な未来への希望ではない。 希望はもっと漠然としたものでありうる。いや、希望とは本来漠然としたものなのだ。未来にはつきものの不安な要素を無視することで希望は成り立つからである。 この意味で、未来へ向けて漠然と希望を抱くときに発生する甘美な感覚は、じつは崩壊への予感を暗黙に含んでいるといってよい。 ジャン=ジャック・ベネックスの『ベティ・ブルー』(1986)にはそのような甘美な時間がある。そしてその音楽がこのような主題をじつに的確に表現している。未来はいずれ現在になる。 したがって希望が現実になるかならないかもそのとき分かってしまう。『ベティ・ブルー』の時間が甘美なのは、やがて到来する現在をつねに先延ばしする点に起因している。 ガブリエル・ヤーレの旋律は、まさにこのような先延ばしを表現する極めて繊細な旋律である。それは一種の反復の効果である。旋律は最後まで展開されず、また出だしのところへ回帰し、こうして無際限に引き延ばされていくのである。 しかし、映画はいつか終わらなければならない。この矛盾が甘美な『ベティ・ブルー』の特質である。


ベティ・ブルー 愛と激情の日々 37°2 le matin

監督・製作・脚本:ジャン=ジャック・ベネックス
キャスト:ベアトリス・ダル【ベティ】、ジャン=ユーグ・アングラード【ゾルグ】
     1986年/フランス/120分

女優ベアトリス・ダルのデビュー作であり代表作に数えられる。 本能のままに愛し合う男女の姿を赤裸々に描写した、その衝撃的な内容と鮮烈なビジュアルで公開当時はパリを始め、世界的なロングランヒットとなった。 原題である「37度2分・朝」は基礎体温の記録表記から。1992年に60分弱の未公開シーンを付け加えた「インテグラル」が公開され、2002年には「ノーカット完全版」のDVDが日本で発売された。


第六十六話 A LONG TIME AGO

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1970年代のアメリカ映画といえば、ドル箱スターのトップがジョン・ウェインからクリント・イーストウッドに入れ替わる時期である。『ダーティハリー』(ドン・シーゲル)に出演した1971年、1930年生まれのイーストウッドは41歳だった。 同じ年のジョン・ウェイン出演作は『百万ドルの決闘』(ジョージ・シャーマン)と『11人のカウボーイ』(マーク・ライデル)である。 1907年生まれのジョン・ウェインはこの時すでに64歳だから、この入れ替わりは映画界のじつに健全なサイクルである。当時のドル箱スターベストテンには、この二人以外にはダスティン・ホフマンやゴルディー・ホーン等がランクインしている。 明らかに世代が変わっているが、興行収入という点からみても、1970年代はひとつの節目であった。1975年にスピルバーグの『ジョーズ』が公開され、2年後の1977年にはルーカスの『スター・ウォーズ』が公開される。スターよりも作品で客がくる時代が到来しつつあったわけである。 で、そういう作品に出演するスターというのはどういうポジションに立つことになるのであろうか。スターのための映画ではなく、映画のためのスターというポジションは、どのような役者を生み出すのであろうか。 80年代から90年代にかけてのスターの存在を理解する上でも、この問いかけは興味深い。この問いかけを具体的にするためには、A LONG TIME AGO, IN A GALAXY … ではじまる 巨大な物語のひとつのエピソードでルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルのポジションを見てみればよい。『スター・ウォーズ』の次に出たのが『コルベットサマー』(マシュー・ロビンズ 1978)という作品で、私はこれを封切りで見た。 高校生のマーク・ハミルが夏休みに自分で改造したコルベットを盗まれ、それを探し出すという物語である。作品の格が『スター・ウォーズ』とあまりに違う。『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(アービン・カーシュナー 1980)に出ると、今度は『最前線物語』(サミュエル・フラー 1980)で兵士の役をやっている。 これも作品としては小品で、しかもスターはむしろ指揮官役のリー・マーヴィンである。マーク・ハミルはスターだが、『スター・ウォーズ』のスターなのである。 そういうスターのあり方が一般化するのが80年代、90年代であろう。スターの意味が変容したのである。ちなみにジョン・ウェインが亡くなったのは1979年である。


スター・ウォーズ Star Wars

監督・脚本・製作総指揮:ジョージ・ルーカス
キャスト:マーク・ハミル【ルーク・スカイウォーカー】、ハリソン・フォード【ハン・ソロ】
     キャリー・フィッシャー【レイア・オーガナ】  1977年/アメリカ/121分

言わずと知れたシリーズ第一作。1977年公開当時、翌年公開の映画『未知との遭遇』などとともに、世界的なSFブームを巻き起こし、それまでマニアックな映画としてしか認識されていなかったSF作品を、誰でも楽しめるエンターテイメントへと評価を完全に変えた。 アメリカ国内のみでの総合興行収入は歴代2位。1989年にはアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録された。


第六十五話 郵便配達とディーバ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ジャン=ジャック・ベネックス監督は『ディーバ』(1981)という作品でデビューしている。公開当時はほとんど話題にならなかったが私は気に入っていた。双葉十三郎氏はヒッチコックやビリー・ワイルダーをよく勉強している監督だというような時評を書いていたが、私が気に入ったのは無論そんなことではない。 イメージそれ自体の特質を評価するためにそんな憶測は意味がないであろう。黒人の女性ソプラノ歌手(彼女が「ディーヴァ」すなわち女神である)のファンである郵便配達の青年が犯罪組織の黒幕を証言するテープを偶然手にしたことによって組織に追われる。 その青年を刑事がマークする。青年は知り合いのベトナム人少女とその情夫(リシャール・ボーランジェ)にかくまってもらう。最後はボーランジェが組織に一杯食わせ、黒幕が警察署長であることが暴露されるという筋書きである。 見どころはたくさんある。例えば、刑事に見張られていることに気づいた青年がモビレットを急発進させるとキャメラがそれを追う。男女コンビの刑事も車で青年を追う。 追いつめられた青年はモビレットに乗ったままで地下鉄の階段を下りて改札を通り地下鉄に乗る。それを車から降りた男の刑事が走って追う。 改札までの地下道を全力で走る刑事とモビレットで地下鉄に乗ろうとする青年がカットでつながれていく。このシーンは何度見ても面白い。 サスペンスとういうよりも、全力で走る刑事を見ること自体が面白く、またモビレットで地下鉄に乗ろうとする青年を見ること自体が面白いのである。 逃げるとか追うとかいう意味にしたがって行為を見せていくのではなく、逃げる/追うという関係をきっかけにして始まってしまった運動をキャメラでひたすら追跡するという撮り方で、それが以外にもユーモアをもたらす結果になっている。 モビレットで地下鉄に乗ろうとする変な奴を全力で追いかける男という構図が可笑しいのである。これがベネックスの面白さである。 それは四年後の『ベティ・ブルー』(1986)に共通するイメージの特質である。ジャン=ユーグ・アングラードが偶然知り合った「カフェ・ストロンボリ」のオーナー(ジェラール・ダルモン)と酒を飲み、なぜか二人とも笑いが止まらなくなるシーンなどは本当に何度見ても面白い。 いったん開始された行為をキャメラで追っているうちにその行為の意味が忘れられてひたすら何かをしている人間が見えてくる。これは間違いなく映画の面白さのひとつである。


ディーバ Diva

監督・脚本:ジャン=ジャック・ベネックス
キャスト:フレデリック・アンドレイ【ジュール】、リシャール・ボーランジェ【ゴロディッシュ】
     ウィルヘルメニア=ウィンギンス・フェルナンデス【歌手:シンシア・ホーキンス】
1981年/フランス/118分

ジャン=ジャック・ベネックスが35歳で初監督した初長編映画で、セザール賞の4部門を受賞するなど高く評価された。 スタイリッシュでありながら小道具や仕掛けに凝った画面は、それまでのフランス映画には無いものであり、 ヌーヴェルヴァーグ映画以降、これといった話題に乏しかった同国においてエポック・メーキングな作品とされ、80年以降のフレンチシネマの幕開けとされている。


第六十四話 フランス映画のルイス・ブニュエル

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ルイス・ブニュエルといえば、スペインを代表する映画監督といってよいであろう。ところが実際にスペインで撮った作品はわずかである。50年代はメキシコで、60年代から70年代はフランスで撮っている。メキシコ時代の傑作『忘れられた人々』(1950)を撮った時、1900年生まれのこの監督はすでに50歳だった。したがってフランス時代の作品は後期ルイス・ブニュエルとして分類できるであろう。 エロとナンセンスとユーモアの混じり合ったフランス時代のルイス・ブニュエル作品は映画の宝であるといわねばならない。 ところで、フランス時代のブニュエルが語られる際によく「幻想」という言葉がキーワードとして用いられる。しかし、この言葉には警戒しなければならない。 なぜなら「現実」も「幻想」もイメージという水準においては区別がつかないからである。映画は「幻想」を視覚的に提示するが、「幻想」のイメージが「現実」のイメージと異なっているわけではない。 どちらも現実に存在する対象をキャメラで撮影したものだからである。映画の中で「幻想」と「現実」が区別できるのはたんなる約束事にすぎない。 日常的なカットのつなぎが構成していく物語の方を「現実」とみなし、そのイメージの連鎖に論理的に矛盾するようなカットを「幻想」や「夢」とみなしているだけである。 つまりこの区別はイメージそれ自体の内的な特徴にもとづくものではない。フランス時代のブニュエル作品は、こういう約束事を無視することで成り立っている。 だからいったいどこからが「幻想」で、その「幻想」がいつ「現実」に戻ったのか分からないのである。そこでブニュエルの観客は「幻想」とか「現実」とかいう視点で映画を見ることを中止する。 そうしなければほとんど理解不可能なのである。カトリーヌ・ドゥヌーヴが娼婦を演じる『昼顔』(1967)は、性的不感症の妻(ドゥヌーヴ)が夫の命令で下僕に鞭打たれるシーンから始まる。 ところがそれは夢である。妻は夫に隠れて昼間の売春を始める。客の一人が自宅に押しかけて個人的な交際を迫るので追い返すと、外で拳銃の音が聞こえる。帰宅した夫がこの男に撃たれたのだ。 男は逃走中に車に轢かれて死ぬ。夫は助かるが車椅子の生活になる。ところが最後のカットで夫は車椅子から不意に立ち上がり、二人は抱き合ってハッピーエンドとなる。 この不合理な話のあまりの明晰さによって、論理的でないものは現実的でないという常識が疑わしくなる。


昼顔 Belle de jour

監督・脚本:ルイス・ブニュエル
キャスト:カトリーヌ・ドヌーヴ【セヴリーヌ】、ジャン・ソレル【ピエール】
     ミシェル・ピコリ【アンリ】   1967年/フランス・イタリア/100分

美しい若妻のセヴリーヌは、医師である夫のピエールとともにパリで幸せな生活を送る一方、マゾヒスティックな空想に取り付かれてもいた。 ある日友人から、上流階級の婦人たちが客を取る売春宿の話を聞き、迷った後に「昼顔」という名前で娼婦として働くようになるが…。 第28回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞。2006年、マノエル・デ・オリヴェイラ監督による続編『夜顔』が製作された。


第六十三話 結婚の風景

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 7人の監督が別々のテーマで撮った短編を集めた『10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス』 (2002)は楽しめる作品であった。私がこれを見たのはもう10年前のことになる。それぞれの短編がほぼ10分の長さである。7人の監督とその作品は以下のとおり。アキ・カウリスマキ「結婚は10分で決める」。 ヴィクトル・エリセ「ライフライン」。ヴェルナー・ヘルツォーク「失われた一万年」。ジム・ジャームッシュ「女優のブレイクタイム」。ヴィム・ヴェンダース「トローナからの12マイル」。 スパイク・リー「ゴアVSブッシュ」。チェン・カイコー「夢幻百花」。見終わって私が気づいたのは、10分という長さでもストーリーを作って撮る監督とそうでない監督が明瞭に分かれるという点である。 ストーリー派はアキ・カウリスマキとヴィム・ヴェンダース。これに対して反ストーリー派はヴィクトル・エリセ、ジム・ジャームッシュ、チェン・カイコーである。 ヴェルナー・ヘルツォークとスパイク・リーの作品はドキュメンタリー風なのでこの区分には入らない。反ストーリー派は、ストーリーを語るというよりもむしろエピソードを提示するという撮り方をしている。 この点から監督の特質がうかがい知れる。反ストーリー派の監督は物語が要求される長編作品においてもどちらかといえばエピソードを提示する方向で物語を語っているように思われるからである。 その傾向はとりわけジム・ジャームッシュにおいて顕著である。逆にストーリー派の監督には10分であっても物語を語ることに対するはっきりとした志向が認められるであろう。 とくにアキ・カウリスマキはたったの10分で完結した物語を構成している。偶然に出会った中年の男と女が結婚を決め、鉄道の駅に隣接する店で間に合わせの指輪を買い、レストランでお茶を飲んでから列車に乗り込むまでおよそ10分である。 まさに「結婚は10分で決める」である。見ているうちに、なるほどこういうふうに結婚が決まることもあるのかと納得してしまう作品である。いや、そこにはむしろ10分で結婚を決めることの必然性のようなものさえ感じられる。 カウリスマキ独特の固定キャメラ、やたらと簡素な背景、少ない台詞。これらすべてが物語にある種の必然性を付与している。あともうひとつ、日本でも人気の高い北欧エレキサウンドが結婚を決めるレストランで生演奏されていた。 これを聴くと10分で決めた結婚がまるで宿命のように見えてくるのであった。


10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス Ten Minutes Older The Trumpet

監督・脚本:チェン・カイコー「夢幻百花」、ヴィクトル・エリセ「ライフライン」、アキ・カウリスマキ「結婚は10分で決める」、ヴェルナー・ヘルツォーク「失われた一万年」、ヴィム・ヴェンダース「トローナからの12マイル」、スパイク・リー「ゴアVSブッシュ」、ジム・ジャームッシュ「女優のブレイクタイム」   2002年/ドイツ/92分

15人の監督たちによる「時」に関連した10分間の作品で構成するオムニバス映画。 ヴェンダース作品のプロデューサーとして知られる、ウルリッヒ・フィルスバーグが96年に立案、監督たちの賛同を得て実現したもの。 どの作品もプリプロダクションに数週間、撮影に1週間、ポストプロダクションに1カ月で製作された。


第六十二話 ダルデンヌ兄弟を見なければ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟といえば、カンヌ映画祭でこれまで二度のパルム・ドールを受けた監督である。一度目が『ロゼッタ』(1999)、二度目が『ある子供』(2005)である。ところが私はどちらもまだ見ていない。 困ったことである。というのは彼らの最新作『少年と自転車』(2011)を見てしまったからである。この作品を見てダルデンヌ兄弟の他の作品に興味を持たないということは常識では考えられないことである。『ある子供』の日本公開当時の記憶はある。 しかし私はどういう事情だったかは忘れたが見に行かなかった。何という愚かな真似をしたことか。上記以外の作品は、『イゴールの約束』(1996)、『息子のまなざし』(2002)、『陽のあたる場所から』(2003)、『ロルナの祈り』(2008)。『少年と自転車』は7本目の長編作品である。 よし、これならまだ間に合う。ダルデンヌ兄弟を見なければならない。その前に『少年と自転車』について若干メモを取っておこう。経済的な理由から子供を施設に入れた父親は、暮らしていたアパートを引き払い、少年の自転車を黙って売ってしまう。 父親がまだアパートにいると思っている少年は自転車をとりにアパートへ行くが、そこはすでに空き部屋で彼の自転車もない。ところがこの一件で少年を知ったある女性がその自転車を偶然見つけ、買い戻してくれる。まったくの好意である。 この始まりのエピソードから舞台はベルギーのごく小さな住宅地であることが知れる。自転車を取り戻した少年はどこにでも自転車で行こうとする。いや、自転車さえあればどこへでも行け、どんな希望でも実現すると信じているかのようである。 父親の居場所を突き止め、週末の里親となった例の女性と訪ねていくが、父親からは疎ましがられる。この件で精神的に落胆した少年の行動はどんどん即物的になる。何か気になるとすぐにそこまでいって確かめようとするわけである。 その間、回りの事には注意が向けられない。大人の手を振りほどいても目的に向かっていこうとする。視野狭窄である。問題行動を起こす子供の特徴である。ところが自転車に乗れば行きたい場所へ行けるし現実の狭い視野に見合ったところまで自然と視野が狭められる。 自由の錯覚がここにある。自転車に乗る少年を固定キャメラが何度も撮る。そのカットによってこの自由の感覚が観客の眼に見えるものになってくる。素晴らしい構成である。 原題の LE GAMIN AU VELO は直訳すれば「自転車に乗った少年」である。


少年と自転車 Le gamin au vélo

監督・脚本:ジャン=ピエール・ダルデンヌ, リュック・ダルデンヌ
キャスト:セシル・ドゥ・フランス【サマンサ】、トマ・ドレ【シリル】
     ジェレミー・レニエ【シリルの父】 2011年/ベルギー・フランス・イタリア/87分

父親に捨てられ、施設で暮らす12歳の少年シリル。寂しさから手当たり次第反抗を繰り返すが、やはり父親が恋しい。 自転車をきっかけに知り合った美容師のサマンサに週末の里親を頼み、シリルは父親を探し出すが、その反応は冷たいものだった…。 第64回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞作品。


第六十一話 フランス映画のカウリスマキ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『ル・アーヴルの靴みがき』(2011)は久しぶりのアキ・カウリスマキ監督作品である。前作『街のあかり』(2006)からもう5年になる。この監督にとっては『ラ・ヴィ・ド・ボエーム』(1991)以来のフランス映画である。 さて、作品はノルマンディーの港町ル・アーヴルで靴みがきを生業とする初老の男が、アフリカから密航してフランスにやってきた一族の少年を匿い、その少年の母親がいるというロンドンに逃がしてやるという筋書きである。 こういう筋書きがサスペンスにならずどこか淡々と進んでいくのがカウリスマキ調である。フランスの港町を舞台にした作品というとジャック・ドゥミーの『シェルブールの雨傘』(1963)などが思い浮かぶが、そういう叙情的な港町はカウリスマキの作品には登場しない。 街といっても、どこか殺風景で舞台の書割りのようなのである。カウリスマキ独特の光景である。また室内の家具調度の簡素さも印象的である。生活の質素さ、単調さがこれで眼に見える。 ところで私の説によれば、サスペンスを排した淡々とした物語の進め方と、殺風景で簡素な舞台背景は相互に関連している。というより、これらの要素の組み合わせがカウリスマキ独特の世界を構成しているのである。 この点について少々理屈を並べなければならない。物語が淡々と進むというのは、どんな事も起こるべくして起こるという感覚からきている。言い換えれば、必然性の感覚である。 これは人間に自由意志があるという考えに反するものである。人間には自由意志があるので何をするか予測できないという考えがサスペンスの前提になっている。これに対し、カウリスマキの人物達の意志は自由というよりもむしろ拘束されている。 ではこの拘束された意志というものを観客はどこに見るのであろうか。カウリスマキの人物達は、簡素で殺風景な背景にじーっとしている。そして彼らの視線はいつもどこかをぼーっと見ている。 この二点が重要である。人間の意志はその行動と視線の動きに読取られるからである。この点で、必要最小限の小道具と注意を向けるべきものが何もないかのような簡素な背景が意味を持つ。「視線のつなぎ」によるカットつなぎもできる限り避けられている。 とはいえ、彼らに意志がないのではない。ただ眼の前の状況だけが人間を拘束し何かを意志させるのである。 カウリスマキの観客がその単調な物語に感動するのは、このような認識を眼に見えるようにしている高度な技術のためなのである。


ル・アーヴルの靴みがき Le Havre

監督:アキ・カウリスマキ
キャスト:アンドレ・ウィルム【マルセル】、カティ・オウティネン【アルレッティ】
     ジャン=ピエール・ダルッサン【モネ警視】  2011年/フィンランド・フランス・ドイツ/93分

フランスの港町を舞台に、ヨーロッパ諸国が抱える移民問題をカウリスマキらしくさらりと取り入れた人情溢れる物語。 『ラヴィ・ド・ボエーム』にも出演したアンドレ・ウィルムが同じ役名で登場している。カウリスマキ常連キャストに加え、 ジャン=ピエール・ダルッサンといった初登場の役者も使いながら、いつものごとく味のある作品に仕上がっている。 さりげなく登場するジャン=ピエール・レオーにも注目。