第八十話 Mr.John Doe

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 偽名というのがある。いかにも映画向きの素材である。『サイコ』(ヒッチコック 1960)では、会社の金を持ち逃げしたジャネット・リーが、モーテルの宿帳に偽名を記入するシーンがある。 偽名を書くという行為がもつ恐怖感をこれほど明瞭に眼に見えるように撮ることは決して簡単なことではない。その意味でじつに貴重なシーンである。 ところで、偽名というのはそれが偽名と分からないから意味があるものである。しかし、偽名ということが分かる偽名というものが存在している。 いや、正確には、偽名であることが分からないと意味のない偽名である。例えば、投書の際のペンネームはそのような偽名のひとつである。 ただしペンネームの場合は、ペンネームと断って使用しないと本当の偽名になってしまう。しかし、その名を見ただけでそれが偽名と分かる偽名がある。 例えば、John Doe という名前は、それが偽名であるという了解の下に使用される偽名である。ちなみに性別が男であるという了解もこの名前には含まれている。 女の場合は Jane Doe というのがあるのだ。アメリカ映画の歴史に親しんでいる者であれば、この偽名をよく知っている。 フランク・キャプラの傑作『群衆』(1941)の原題が Meet John Doe なのである。直訳すれば「ジョン・ドウに会う」である。 ふとした偶然から記憶喪失の男(ゲーリー・クーパー)を匿うことになった新聞記者(バーバラ・スタンウィック)は、その男が完全な記憶喪失であることを利用して美談をでっち上げ、新聞の売り上げを伸ばすことに成功する。 John Doe とは、新聞記事が身元不明の誰にでも使う名前だが、ここではそれがあたかも固有名のような意味を帯びてくる。 思えば、二十世紀の前半、新聞記者という職種は映画の花形であった。『トゥルー・クライム』(クリント・イーストウッド 1999)などはそういう時代のクラシックな雰囲気を踏襲している。 ところで、『群衆』のクーパーは、新聞が自分をだしにして世間を欺いていることに気づき、義憤を感じ始める。 そのクーパーをなだめすかして記事を書き続けるバーバラ・スタンウィックのしたたかな存在感が素晴らしい。しかし最終的にはクーパーの道徳的な高潔さが計算高い記者の回心を呼び起こすという物語である。 やはりクーパーであるがゆえに説得力をもつ物語である。 同じ監督の『オペラ・ハット』(1936)もそうだが、観客はゲーリー・クーパーによって「道徳」というものを眼で見るわけである。


群衆 Meet John Doe

監督・製作:フランク・キャプラ
キャスト:ゲイリー・クーパー、バーバラ・スタンウィック
1941年/アメリカ/124分

クビになりかけた女性記者アンが起死回生の策として、一人の架空の自殺志願者を創り出す。 ジョン・ドゥーと名付けられた彼は、日々その動向が彼女の記事となり、国民の強い支持を得て、一躍、時代の寵児に祭り上げられてゆく…。 アメリカの架空の都市を舞台に、幻想味豊かに描く人間への信頼と不信の寓話。 コーエン兄弟が「未来は今」で、その雪降る摩天楼の導入と終幕まで瓜二つに模倣してみせた。


第七十九話 シドニー・ポラックを讃えて

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 六十年代から映画を撮り始めた世代の監督といえば、米国ではフランシス・コッポラという名前がまずあげられるであろう。 監督や役者が撮影所に所属するのではなく、作品ごとに契約して映画が製作される時代である。マーティン・スコセッシのような人はさらにその下の世代で、七十年代から映画を撮り始めている。 撮影所がキャスティングの権限を握っていた時代はすでに終わり、建前としては誰もが自由に組んで映画を作れる時代になっている。 ところが、そうなるとむしろ監督と役者の結びつきが強まるという逆説があらわれてくるのは興味深いことである。例えば、マーティン・スコセッシはロバート・デ=ニーロを使い続けることになるだろう。 コッポラはむしろ逆の傾向の人で、同じ役者と組んで映画を撮り続けることはなかった。ジーン・ハックマンからフレデリック・フォレストまで、どんどん変わる。 コッポラと同じ六十年代から撮り始めた監督で、同じ役者を使い続けたのはシドニー・ポラックである。ロバート・レッドフォードの出世作『雨のニューオリンズ』(1965脚本:フランシス・コッポラ)以来、『大いなる勇者』(1972)、『追憶』(1973)、『コンドル』(1975)、『出逢い』(1979)、さらに大ヒットとなった『愛と悲しみの果て』(1985)まですっとポラック=レッドフォードのコンビである。 こうやって振り返ると、まるでロバート・レッドフォードとしか仕事をしていないように見えるかもしれないが、もちろんそんなことはない。『ボビー・ディアフィールド』(1977)ではアル・パチーノと、『トッツィー』(1982)ではダスティン・ホフマンと組んだりしている。 しかし、ポラックらしさが発揮されるのはやはりレッドフォードの映画である。で、ポラックらしさとは何を指すのであろうか。 私の勝手な理屈でいえば、存在が孤立していく様子をとらえる技術と才能にかけて、ポラックほど卓越した監督はいない。別に他人から疎まれるという意味での孤立ではない。 自己の信念に率直に従うことが彼を孤立した存在へ導いていく。ロバート・レッドフォードによって、そのような孤立感は完璧に眼に見えるものになる。 他人に頼ることをよしとしない人間に特有の悲壮感がレッドフォードにはあって、それを的確にキャメラでとらえる監督がポラックなのである。 いやそういえば、レッドフォードと同じような持ち味の女優が一人いたかな。『ひとりぼっちの青春』(1969)でポラックと組んだジェーン・フォンダである。


雨のニューオリンズ This Property Is Condemned

監督:シドニー・ポラック
キャスト:ナタリー・ウッド、ロバート・レッドフォード
1965年/アメリカ/110分

孤児のウィリーが、一人で「Wish me a rainbow」を歌いながら線路の上を歩いて遊んでいると、トムという少年が話しかけてくる。ウィリーは、昔家族がいたころの話を始めた。 単原作は、テネシー・ウィリアムズによる一幕劇の『財産没収。脚色はフランシス・フォード・コッポラ。劇中のドッドスンは架空の町で、ほとんどのシーンがベイセントルイスで撮られた。


第七十八話 永遠の22歳

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『ベティ・ブルー』(ジャン=ジャック・ベネックス1986)の主演に抜擢されたとき、モデル出身でこの作品が映画初出演であったベアトリス・ダルは22歳だった。 もう少し年長かと思っていたが、調べてみるとこの若さである。ブリジット・バルドーが本格的な主演第一作『素直な悪女』(ロジェ・バディム 1956)に出演した年齢も、調べてみると22歳だった。 この二人を並べてみたのは、フランスの女優でモデル出身、しかもセックス・アピールのみではない卓越した魅力をもっているという点でよく似ていると思ったからである。 それで調べてみると本格デビューの年齢まで同じだったというわけである。ブリジット・バルドーの人気というのは圧倒的だったようである。 例えば、『軽蔑』(1963)の撮影が行なわれるロケ地にむらがってくるパパラッチとファンを追い払うのに莫大な労力が必要とされることに、さすがのゴダールも疲労していたという。 で、ベアトリス・ダルはどうだっただろうか。これは私の同時代の話だが、じつはよく憶えていない。そもそも『ベティ・ブルー』という作品の公開のされ方自体が何かマイナーな感じだった。 しかし、『ベティ・ブルー』を見た男達が一人残らずベアトリス・ダルのファンになったであろうという点に関してはほぼ疑いの余地はない。『ベティ・ブルー』のベアトリス・ダルはそれほど新鮮だった。 ジャック・ドワイヨンがベアトリス・ダルで新作を撮ったというニュースが伝わった。『女の復讐』(1989)である。共演者はイザベル・ユペール。 原作はドストエフスキーの『永遠の夫』という短編である。こういうニュースを聞いて私のような者がやることといえば相場が決まっている。 新潮文庫で『永遠の夫』を買ってきて読んでいた。物語はすっかり忘れてしまった。しかしそんなことはどちらでもいいことである。 ベアトリス・ダルでドストエフスキーを読むということが重要だったのだから。『女の復讐』は、決して好きな映画ではない。 いかにもドワイヨン流の情念のドラマで、人間の身体がいかに情念に取り憑かれているかを視覚的に見せていく独特の手法である。 例によって室内劇で、しかも極めて狭い空間を使っている。これもドワイヨン流である。閉じた空間に挟まれた人間身体を観察して情念の力を眼に見えるものにしていくという構成のなかに二人の女優が置かれる。 技術的には高度な映画だが、ベアトリス・ダルの魅力が活かされたかどうかは疑問である。


ベティ・ブルー 愛と激情の日々 37°2 le matin

監督・脚本・製作:ジャン=ジャック・ベネックス
キャスト:ジャン=ユーグ・アングラード、ベアトリス・ダル
1986年/フランス/120分

単調な日々を送っていた35歳のゾルグのもとに、美しい少女・ベティが現れた。ベティの野性的な魅力に惹かれ二人は激しく求め合うが、やがてベティの精神は病み…。 本能のままに愛し合う男女の姿を赤裸々に描写した、その衝撃的な内容と鮮烈なビジュアルで公開当時はパリを始め、世界的なロングランヒットとなった。


第七十七話 女装の男達

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ジョディ・フォスターがレズビアンであることを公表して話題になっているということである。こういうのを「カミングアウト」というらしい。 レズビアンといえば、バーバラ・スタンウィックが有名である。別に「カミングアウト」していたわけではないがみんなが知っていたということで、こういうのを「公然の秘密」という。 さて、ポルノを除いても、レズビアンはけっこう映画の素材になっている。私が好きなのは、例えば『暗殺の森』(ベルナルド・ベルトルッチ1970)でドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリがタンゴを踊るシーンである。 白のドレスと黒のドレスが絡み合うこのシーンを見るためだけに『暗殺の森』を始めから終わりまで見ることは私には何ら苦痛ではない。 ゲイもまた、映画の素材としてはよく使われる。それがいかに繊細な物語を生み出しうるかを認識するには『ベニスに死す』(ルキノ・ヴィスコンティ1971)を思い起こしておけば十分であろう。 ここではむしろ、より映画的な素材である女装に眼を転じてみよう。古典的な作品としては、ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』(1959)がやはり有名である。 その面白さは、女装したジャック・レモンがどう見ても男にしか見えないのに、マリリン・モンローが完璧に女と誤解したことから生み出されるユーモアにあることは明らかである。 だから面白さの焦点はジャック・レモンの女装にあるのではなく、マリリン・モンローの素っ頓狂な反応にある。見どころはそこなのだ。 この面白さは子供にはなかなか分かりにくい。ダスティン・ホフマンの『トッツィー』(シドニー・ポラック 1982)、ロビン・ウィリアムズの『ミセス・ダウト』(クリス・コロンバス 1993)のような本格的な女装の映画はもっと分かりやすい。 女装に対する反応にではなく、女装そのものに焦点があるからである。ダスティン・ホフマンもロビン・ウィリアムズも入念な化粧とボディーメイクでどう見てもおばさんにしか見えず、また相手役のジェシカ・ラングやサリー・フィールドも素直におばさんと思い込んでいる。 したがって、決して女装がばれてはいけないという緊張から生み出される失敗のユーモアと、でもいつかばれるかもしれないというサスペンスが映画を進めていくことになる。 ユーモアとサスペンス、まるでヒッチコックの映画である。ヒッチコックの『めまい』(1958)はキム・ノヴァクが別の女に変装するという話だった。 これも女装の映画だろうか。


お熱いのがお好き Some Like It Hot

監督・脚本・製作:ビリー・ワイルダー
キャスト:マリリン・モンロー、トニー・カーティス、ジャック・レモン
1959年/アメリカ/120分

禁酒法時代のシカゴ。殺人を目撃し、マフィアに追われるサックス奏者のジョーとベース奏者のジェリーは、女装して女性楽団にもぐりこむ。 楽団の歌手シュガーに恋をしたジョーは再び変装し、シェル石油の御曹司として彼女にプロポーズするが…。 ヒロイン役のモンローはこの映画が、白黒だと知るや不機嫌になった。ワイルダー曰く制作費不足ではなく、男2人の女装がカラーで映ると非難されるので、白黒にしたらしい。


第七十六話 ワンテイクの男

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画監督には二種類の監督がいるらしい。同じカットを納得のいくまで撮り直す種類の監督と、ほとんどのカットをワンテイクで片付ける監督である。 といっても、ワンテイクで片付ける種類の監督が芸術性に欠けるというわけではない。ジョン・フォードはほとんどのカットをワンテイクで撮っていた監督である。 しかしジョン・フォードの作品が芸術性に欠けるなどということはできない。ジョン・フォードほど詩的なイメージを造形しうる監督は存在しないからである。 それゆえ、映画監督がワンテイクに固執する背景には、独特の芸術観が存在していると考えなければならない。ではなぜワンテイクにこだわるのであろうか。 ピーター・ボグダノビッチが監修したジョン・フォードのドキュメンタリーを見ると、ボグダノビッチ自身がこの点をフォードに問い質している。 それに対するフォードの答えはじつに明快である。同じカットを何度も演じていると、役者に緊張感がなくなり、つまらなくなるというのである。 単純明快で文句のない答えである。たしかに、ワンテイクの演技は、演技であるとはいえ、ほとんど現実の場面と区別できないイメージを提供するであろう。 フォードは、『馬上の二人』(1961)でのジェームズ・スチュワートとリチャード・ウィドマークによる長い会話の場面に言及して自説を展開しているが、そういわれてみると、この映画で始めて顔を合わせた二人のスターが作り出す緊張感が、何ともいえないユーモアになっていることに気づかされる。 不思議な魅力のあるカットである。何度もテイクを繰返したのでは、おそらくこのユーモアは消えてしまうであろう。 ワンテイクの男といえば、もう一人、クリント・イーストウッドがいる。『パーフェクト・ワールド』(1993)は、当時人気の頂点にあったケヴィン・コスナーとの共演である。 地方の保安官イーストウッドが脱獄囚のケヴィン・コスナーを追跡する物語である。ケヴィン・コスナーは納得のいくまでテイクを繰返すことで知られていた。 自身が監督・主演した『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』(1990)はまさにそのような映画作りの結晶である。ところがイーストウッドはこれを嫌った。 この作品でイーストウッドとコスナーが一度も同じカットに出てこないのはそのためである。 理由は違うが、まるで『グランド・ホテル』(1932)のグレタ・ガルボとジョーン・クロフォードのような共演である。


パーフェクト・ワールド A Perfect World

監督:クリント・イーストウッド
キャスト:クリント・イーストウッド、ケヴィン・コスナー、ローラ・ダーン
1993年/アメリカ/138分

アメリカ・テキサス州。脱獄したテリーとブッチは、逃走途中に8歳の少年フィリップを人質にするが、彼に危害を加えようとしたテリーを射殺し、2人で逃避行を続ける。 厳格な母子家庭で育ったフィリップとブッチとの間にはやがて友情が芽生え、自らの父がかつて1度だけよこしたアラスカからの絵ハガキを大事に携行していたブッチは、フィリップを連れてアラスカ(パーフェクト・ワールド)を目指す。


第七十五話 ウィリアム・ディヴェインの思い出

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 サスペンス映画の見どころに、味方と思っていた人物がじつは敵だったというのがある。たとえば、『アイガー・サンクション』(クリント・イーストウッド 1975)のジョージ・ケネディがそうだった。信頼していた親友がじつは自分をはめようとしていたという、いかにもイーストウッド流の筋書きで、私は好きである。 ところが、敵か味方か分からないという不透明な人物がサスペンスにはしばしば登場する。これも私は好きである。そのような人物の存在そのものがサスペンスをもたらす。 ただし、こういう人物を説得力ある存在にするには役者の選定が重要になる。どう見ても好人物というのではこの役はできない。 しかし反対に、見るからに悪人面というのでも困る。もっと中立的な表情をもちつつ、ごく僅かに悪の気配を漂わせているのでなければならない。『マラソンマン』(ジョン・シュレシンジャー 1976)でウィリアム・ディヴェインが演じたのはそんな男の役である。 少し長髪ぎみで濃紺に縦縞のスリーピース・スーツを着込んだウィリアム・ディヴェインが、黒塗りのセダンから降りてくるところを固定キャメラでとらえたカットがあった。 窮地に陥ったダスティン・ホフマンの前に現れるシーンである。この時点ではウィリアム・ディヴェインが敵なのか味方なのか観客にも分かっていない。 ここがサスペンスである。それでウィリアム・ディヴェインがダスティン・ホフマンを救出すると観客はほっとするわけである。すばらしいシーンであった。 また、ウィリアム・ディヴェインが抜群に恰好よかった。このような、顔を使ったサスペンスは、じつはヒッチコック流である。 事実、ヒッチコックも『ファミリー・プロット』(1976)でウィリアム・ディヴェインを使っている。主演のブルース・ダーンもどちらかといえばそんな雰囲気の顔だから、やはりヒッチコックはこんな顔が好きなのだ。 ところで、『がんばれ!ベアーズ特訓中』(マイケル・プレスマン 1977)以来、映画でウィリアム・ディヴェインを見なくなった。『スペース・カウボーイ』(クリント・イーストウッド 2000)で、私は久しぶりにこの役者を見た。 すでに『マラソンマン』のころの恰好よさはなくなっていたが、敵か味方か分からない個性的な顔は健在であった。 イーストウッドもその顔をうまく使って、微妙な緊張感を演出していた。腕のある監督が使いたくなる顔の役者であるということであろうか。


スペース・カウボーイ Space Cowboys

監督・製作:クリント・イーストウッド
キャスト:クリント・イーストウッド、トミー・リー・ジョーンズ、ウィリアム・ディベイン、
2000年/アメリカ/130分

かつてアメリカ空軍にチーム・ダイダロスという伝説的なテストパイロット・チームがあった。彼らは宇宙探索の実験旅行のために待機していたが、 NASAの介入で、ロケットに乗ったのは彼らではなくチンパンジーになってしまった。 それから40年。チーム・ダイダロスの一員だったフランクに、NASAから要請が入る。ロシアの旧式の宇宙衛星アイコンを修理してほしい、と…。


第七十四話 映画ファンの誇り

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画ファンとはいったいどんな種類のファンなのであろうか。一見すると、映画ファンはそれほど特殊な存在には見えない。 つまり、音楽ファン、サッカーファン、等々、何らかの対象を愛好する人たちを何々ファンというわけだから、映画ファンは愛好する対象が特に映画に限られるという点でのみ、他の諸々のファンと異なっているにすぎない。 そしてこの点はすべての分野のファンにいえることなのである。しかし、映画ファンはこれでは納得しないであろう。 対象を芸術に限定しても、映画ファンは音楽ファンや演劇ファンとは違った存在である、と少なくとも映画ファンだけは思っている。私はこの説を無論支持している。 映画ファンは特別なのだ。で、どこが特別なのであろうか。スタンリー・カヴェルという人が本を書いている。アメリカの哲学者である。 しかし私がここで参照しようとしているのは、この人が映画にかんして書いた本である。タイトルはTHE WORLD VIEWED すなわち『見られた世界』である。 この本のなかでカヴェルはじつにうれしいことを書いている。映画ファンは他の分野の芸術ファンと明確に一線を画するというのである。 で、問題はどうしてそういえるのか、という点である。カヴェルがいうには、音楽ファンというのはさらにクラシックファン、ジャズファン、ロックファン、といったように細分化されている。 そして細分化されたジャンルの音楽を愛好する人は、他のジャンルの音楽を聴くことはほとんどない。なるほどそういわれてみると確かにそうである。 クラシックファンはカントリーを聴かないし、ジャズファンはロックを聴かない。これが普通である。ところが、映画ファンはどうであろうか。 映画ファンはすべての映画を見る。映画ファンにとってはそれが普通である。西部劇しか見ないという人も、アクションものしか見ないという人も、映画ファンには存在しない。 ここが特別である、というのがカヴェルの説である。まことに急所を押さえた説であるように私には思われる。 映画ファンは、ベルイマンとオルドリッチを区別せずに見る。映画ファンはヒッチコックとドライエルが両方とも好きである。 映画ファンはミュージカルと西部劇を同じ視線で見ることができる。映画ファンはラブストーリーが好きだが、同じくらいスリラーが好きである。 あげていけばきりがない。ようするに映画が好きなのである。この点を「誇り」と呼ぶとすればいささか自負しすぎであろうか。

第七十三話 暗い日曜日

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画のなかの人物は現実に存在するのであろうか。存在しない、というのがいわば通念である。なるほどそうである。映画のなかの人物も、映画のなかでおこったことも現実には存在しない。 それはまさに映画のなかに存在するだけである。しかし、映画のなかにそれらが存在するのは現実である。 では、映画を見るということは、現実を見ることと、どう違うのであろうか。映画館の客席に座って見ているという枠組みが、仮になくなったら、どうであろうか。 たとえば、自分はいま現実ではなく映画を見ているという前提を観客が忘れてしまったとしたらどうであろうか。 そのとき、映画イメージと現実のイメージを区別するしるしは、イメージそのもののなかに見つかるであろうか。映画はフィルムという光学技術にもとづく芸術である。 この技術の特色は現実の視覚的側面をそのまま保存するという点にある。 したがって、イメージそのものだけを眼中におくなら、映画を見るということは現実を見るということと何らかわりないことになる。 すると、どういうことになるのであろうか。ひとことでいえば、映画のなかの人物は現実に存在するということがここから導き出される。映画の楽しみはここにある。 もっとも、どんな映画も現実を見るようにして見ることができるということではない。現実との区別がつかなくなる映画は間違いなく存在するということは自信を持っていえるが、どんな要因がそのような経験をもたらすのかは私などにはよく分からないところである。 まあ、分からなくてもいいことではある。『シベールの日曜日』(セルジュ・ブルギニョン 1962)は、私にとっては現実に存在した話である。 別に映画に限らず、過去に起こったことはそれを見た人の記憶のなかにしか存在しないわけだから、この点でも映画を現実と区別する理由はなくなる。 戦争で知的な障害をうけた青年(ハーディ・クリューガー)は、彼が暮らす町の寄宿学校に入学してきた少女(パトリシア・ゴッジ)と仲良くなる。 この少女の名がシベールである。ファースト・シーンは、駅に到着した列車から、シベールが父親を伴って下りてくるカットで始まる。 アンリ・ドカエのキャメラが真っ暗な駅をとらえる。父親の黒いコートは背景に溶け合ってそれと分からないほどの暗い夜である。 娘を寄宿学校に入学させるのに夜、しかも二人きりというのはいかにも寂しい。このカットによって、シベールという少女の存在は私にとって現実となった。


シベールの日曜日 Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray

監督・脚本:セルジュ・ブールギニョン
キャスト:ハーディ・クリューガー、パトリシア・ゴッジ
1962年/フランス/110分

元空軍のパイロットで、第一次インドシナ戦争での戦傷による記憶喪失が原因で無為な毎日を送っているピエールは、ある日ひとりの少女に出会う。 父親に捨てられ、天涯孤独の身となった少女と彼は、日曜日ごとに疑似的な親子とも恋人同士とも言える関係で触れ合う。 しかし、幸福な週末は長くは続かなかった…。アカデミー外国映画最優秀作品賞、ベニス映画祭特別賞、アメリカ・アート・シアター賞などを受賞。


第七十二話 喜劇女優

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 喜劇女優といえば、文字通りには喜劇専門の女優を指している。キーストン時代のチャップリンの共演者であったメーベル・ノーマンドなどはその名にふさわしい女優であろう。 また、1930年代のスクリューボール・コメディの女王であったキャロル・ロンバードも忘れることはできない。『ある夜の出来事』(フランク・キャプラ 1934)で「喜劇」男優でもあることを証明したクラーク・ゲイブルとの結婚の数年後、1942年に33歳で亡くなったこの女優の遺作『生きるべきか死ぬべきか』(エルンスト・ルビッチ 1942)を、私は1989年の「封切り」で見た。 それまで日本未公開だったのである。この作品から明瞭に認識できることは、喜劇というのは物語の構造が作り出すものであって、役者そのものが観客を笑わせるような演技をする必要はないという点である。 実際、映画はカットごとに撮影されるわけだから、人を笑わせる演技など要求することは困難であろう。むしろ物語の構造が観客の眼に見えるよう、役者は冷静沈着ですらなければならない。 冷静沈着を傍若無人に見せるのが物語およびカットつなぎの技術である。したがって、喜劇女優という言葉が指しているのは、演技で観客を笑わせる女優ではなく、喜劇の物語構造に適合する存在感をもった女優であることになる。 回りの状況が理解できずに行動する素っ頓狂な娘という喜劇女優の典型は、過剰な演技からはほど遠い。『ファール・プレイ』(コリン・ヒギンズ 1978)という作品を私は中学生のときに封切りで見た。 こちらは文字通りの封切りである。まだ無名のダドリー・ムーアが変態趣味の独身男の役で出ていた。テレビ・バラエティ『サタデーナイト・ライブ』のチェビー・チェイスは色男の役で出ていた。 主演はゴルディー・ホーンである。この作品のゴルディー・ホーンがまさに素っ頓狂娘で、自分が事件に巻き込まれているということの意味を理解しようとせず、そのくせ訪問者を過度に警戒して、たんなる変態にすぎないダドリー・ムーアに大けがを負わせるが、それが見当違いと分かっても、どうせあの変態でしょ、という感じで罪の意識をもつこともない。 これが痛快なのである。包帯でぐるぐる巻になりながら、めげずに交際をせまるダドリー・ムーアにも笑ってしまう。色男のくせに下心丸出しのチェビー・チェイスも無論面白い。 メーベル・ノーマンドやキャロル・ロンバードの作品とともに、リバイバルで見たい作品である。


ファール・プレイ Foul Play

監督・脚本:コリン・ヒギンズ
キャスト:ゴルディー・ホーン、チェビー・チェイス、ダドリー・ムーア
1978年/アメリカ/116分

グロリアは友人のパーティからの帰り道にヒッチハイクの男を車に乗せるが、その男(実は情報部員)から知らずに預かってしまったフィルム入りのタバコをめぐって彼女は命を狙われることに…! 88年に早世したコリン・ヒギンズが手掛けたサスペンス・コメディ。ヒッチコック監督へのオマージュを感じさせるシーンがあちこちに登場するのも、また見どころな一本。


第七十一話 アウトロー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 町を荒らす無法者の存在に耐えかねた住民たちが集会を開く。町に平和を取り戻す手段を話し合うためである。雑貨屋の店主が議長を務めるが、理想主義的な意見ばかりが飛び交う。 しょせんは誰も町のために命をかけたりはしないのだ。と、そこへ、民主的な話し合いなどは信用しなかったはずの男が声をあげる。住民は、普段は疎ましく感じている男の話に思わず耳を傾けざるをえない。 この男なら無法者を間違いなく黙らせることができるからだ。アメリカ映画は、西部劇の伝統のなかでこういう孤高の存在を視覚化する技術を磨き上げてきた。 たとえば『ワーロック』(エドワード・ドミトリーク 1959)でヘンリー・フォンダが演じたのも、アメリカ映画における伝統的な人物像にほかならない。 西部劇がアメリカ映画の主流から姿を消しても、この無頼の人物像は映画の物語の中心に存在し続ける。『ジョーズ』(スティーヴン・スピルバーグ 1975)は、映画製作と配給の関係に重大な変化をもたらした作品だが、伝統的なアメリカ映画の図式を完璧に踏襲した古典的な物語を基礎にしている。 この作品は、フロリダ州のアミティというごく小規模な町を舞台にしている。小規模な町という点がすでに西部劇である。観光で日銭をかせぐ町の秩序を危機に陥れる無法者はサメである。 この危機に保安官(ロイ・シャイダー)は無力な存在で、海洋研究所から派遣された職員(リチャード・ドレイファス)もあてにならない。 こういう人物をコントラストのために配しておくのも伝統の一部である。そこへ、無法者を黙らせる男が現れる。ロバート・ショーが演じるサメ専門のこの漁師は、町が平穏なときであれば疎ましがられる存在である。 この男がまさに民主的な話し合いの場に現れ、発言するところからこの映画は動き始めるのである。このとおり、『ジョーズ』という作品は、人食いザメが海水浴の町を恐怖に陥れるという新奇な発想とは裏腹に、映画作りという点においてはアメリカ映画の伝統を踏襲し、またそのことによって魅力的な作品となっていることは間違いない。 住民から疎まれる男が住民のために命をかけるという屈折したドラマが、じつはアメリカ映画の伝統を作り上げているのである。 ロバート・ショーは人食いザメに食われて死ぬ。結局、サメを仕留めるのは頼りにならなかった保安官である。善良な人物の底力が最後には勝利するというこのラストも、やはりアメリカ映画の伝統である。


ジョーズ Jaws

監督:スティーヴン・スピルバーグ
キャスト:ロイ・シャイダー、ロバート・ショウ、リチャード・ドレイファス
1975年/アメリカ/124分

平和なビーチを襲う巨大人食いサメの恐怖と、それに立ち向う人々を描いたスティーヴン・スピルバーグの代表作のひとつである。 スピルバーグの作品では珍しく、子どもが死ぬ描写がある。 マシュー・レオネッティ製作の機械仕掛けのサメは、スタッフ間で「ブルース」と呼ばれ、船を攻撃したり、漁船に乗り上げてくるなど、実際のホオジロザメの生態とはかけ離れた描写も多い。