第九十話 ボイスオーバー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ボイスオーバーというのがある。1930年代に映画が音声を持って以来、現在にいたるまでつねに使用されてきた技法のひとつである。 映画を見ながら観客が聞く声は、普通は映像の中で話している人物の声である。音声は映像とシンクロしている。しかし、ボイスオーバーはそうではない。 物語を過去形で語るその声の主は、フレームの外側に位置しているからである。すべてが完了した地点から現在進行している物語を語る語り手は、多くの場合その主役である。 この場合、語りは一人称になる。フィルム・ノワールに分類される作品はほぼこれである。『上海から来た女』(1947)は、主演のオーソン・ウェルズのナレーションを聞くだけでも楽しめる。 これに対し、脇役が物語を語る場合には、当然その語りが三人称になる。『市民ケーン』(1941)で物語を語るのは、主演のオーソン・ウェルズではない。 映画がはじまった時点でオーソン・ウェルズ演じるケーン氏はすでに亡くなっているからである。『天国の日々』(1978)では主役のリチャード・ギアではなく、その妹役のリンダ・マンズが物語を語っていた。 この作品でもリチャード・ギアは最後に警官に撃たれて死ぬからである。『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)では、主演のヒラリー・スワンクではなく、イーストウッドのボクシング・ジムに住み込んではたらく元ボクサーのモーガン・フリーマンがこの悲劇を語っていた。 タイトル戦で相手ボクサーの反則によって頸椎を損傷し、半身不随となったヒラリー・スワンクを、トレーナーのイーストウッドが安楽死させる物語を、ヒラリー・スワンク自身が語るわけにはいかない。 だからといって、イーストウッドが語るのもちょっと何である。それで『ミリオンダラー・ベイビー』のボイスオーバーは、モーガン・フリーマンがイーストウッドの娘に父親の物語を語って聞かせるという形式になっているのである。 じつに見事なアイデアである。『ミリオンダラー・ベイビー』では、観客は自分に向かって語られる物語を聞くのではない。その分、物語に対して距離を置いて見ることができる。 しかし、その娘は映画の中にはじつは一度も登場しない。だからモーガン・フリーマンが実際にその人物に向かって語っているとは考えにくい設定になっている。 つまり、この物語は、ある無名の男が、友人の娘に語りたかった物語なのである。観客は、娘の代わりにこの物語を見たことになるわけである。


ミリオンダラー・ベイビー Million Dollar Baby

監督:クリント・イーストウッド
キャスト:クリント・イーストウッド、ヒラリー・スワンク、モーガン・フリーマン
2004年/アメリカ/133分

家族からすらも愛情を受けた事のない孤独な女性と、家族にすら愛情を見せた事のない不器用な老年の男性。 ボクサーとコーチとして二人の間に芽生える家族以上の絆と、その悲劇的な結末を描いた物語は、3000万ドルの低予算と37日という短い撮影期間で製作されながら、 第77回アカデミー賞において、作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞の主要4部門を独占したのを始め、多数の映画賞を受賞した。


第八十九話 ジャームッシュのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

ジム・ジャームッシュのロードムービーといえば『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984)である。私は、この作品の冒頭でエスター・バリントの携帯用カセットデッキから聞こえてくるスクリーミン・ジェイ・ホーキンスの曲を聞くために、レコード屋を探しまわった記憶がある。 今のように何でも画面で検索できるような時代ではない。あまりの新鮮さに当時は冷静に見ることができなかったこの作品も、DVDを手に入れて何度も見るうちに、その技術的な側面がだんだん分かってきた。 カセットデッキを鳴らしながらニューヨークの街頭を歩くエスター・バリントをとらえるカット以外、移動撮影が一カ所もない。 固定したキャメラがパンすることも、トラックアップもトラックバックもない。全編固定キャメラである。しかも、ひとつのシーンではひとつのアングルしか使用されず、構図の切り返しがない。 したがって、ワンカットは相対的に長い。かといって、ワンシーン・ワンカットのような派手な演出ではない。キャメラを動かさないからである。 溝口健二などは、ワンカットを長く撮ったとしても、キャメラはつねに移動している。ジャームッシュにはそれもない。無論、すべてわざとやっているわけである。 構図の切り返しを使わないというのはゴダールがやり始めた反=技法であり、ジャームッシュもおそらくゴダールからそれを学んでいる。しかし、その適用範囲はゴダールよりも徹底している。 まれにみる新鮮さが、こうした徹底した方針からもたらされたのである。ジョン・ルーリーとその友人が、ニューヨークからクリーブランドに従妹のエスター・バリントをたずねていって、そのまま三人でフロリダへ向かうというところからロードムービーになってくる。 私の説によれば、恋愛は移動を止める要因であるがゆえに、ロードムービーは恋愛を避けねばならない。しかしまたそうであるがゆえに、ロードムービーは恋愛で終わらなければならない。 恋愛がなければ移動を止めることができず、したがって映画を終わらせることができないからである。感情の起伏の激しいジョン・ルーリーに嫌気のさしたエスター・バリントは、フロリダから飛行機に乗ってブタペストに帰ってしまう。 しかし、これだけではロードムービーは終われない。 従妹に恋したことを自覚したジョン・ルーリーの乗った飛行機が離陸していくカットでこの映画は終わる。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がロードムービーだったことの証拠である。


ストレンジャー・ザン・パラダイス Stranger Than Paradise

監督・脚本:ジム・ジャームッシュ
キャスト:ジョン・ルーリー、エラ・エスター・バリント、リチャード・エドソン
1984年/アメリカ・西ドイツ/84分

ハンガリー出身でニューヨークに住むウィリーは叔母が入院する間、従姉妹のエヴァを預かることになる。 そりが合わない二人も次第に打ち解け、ウィリーの博打仲間エディーと3人でバカンスを求めてフロリダに向かうのだが…。 ジム・ジャームッシュの長編映画第2作目。 全編モノクロで撮られ、ニューヨーク、クリーブランド、フロリダの3部に構成が分かれている。 第37回カンヌ国際映画祭カメラ・ドール受賞。


第八十八話 幻の映画

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 幻の映画というのがある。見た記憶があるのにタイトルを憶えていなかったりする場合である。私の場合、『ひとりぼっちの青春』(シドニー・ポラック 1969)などは幻の映画であった。 子供の時にテレビで偶然見て、シーンだけを憶えていたからである。自分が見たことは確かなのに、それが何であるかを確認できず、それゆえ他人に伝えようがない作品というのが、幻の映画の定義である。 実際、幻というのは自分にしか見えない存在を指すのであるから、この言葉遣いは間違っていないはずである。したがって、幻の映画とはまだ見たことのない映画のことではない。 ジョン・フォードの『男の敵』(1935)や『若き日のリンカン』(1939)などは、私はまだ見ていない。こういう作品を見ることは、私には三十年来の夢だが、残念ながらまだ実現していない。 だからこれらは幻の映画ではなく、むしろ夢の映画というべきであろう。DVDのおかげでドライエルの『奇跡』(1954)はつい最近ようやく夢の映画ではなくなった。 私はおよそ三十年前にこの作品の劇場公開の機会を逃しており、その意味で夢というよりは悲願であったのだが。ともあれ、夢の映画は数えきれないほどある。 それに対して、幻の映画はまれである。タイトルを憶えていなかったりすると、見たこと自体を忘れてしまうからである。しかし、タイトルがはっきりしていても、今後その作品を見る機会がおそらくないだろうということになると、これも一種の幻の映画である。 もう自分の記憶の中にしか存在しないという意味で幻なのである。シモーヌ・シニョレがマダム・ローザを演じた『これからの人生』(モーシェ・ミズラヒ 1977)は、私にはすでに幻の映画である。 あと一本、『幻の女』(1944)という私の幻の映画がある。ウィリアム・アイリッシュ原作のミステリーで、監督はロバート・シオドマーク。家に帰ると妻が死んでいる。 殺人者という誤解を解くために、その男は妻の死亡時刻の自分のアリバイを証言できる「あの女」を探し始める。物語はほぼ原作どおり(ハヤカワ文庫で読めます)だが、短いカットのつなぎで断片的に語られていく構成が素晴らしい。 フィルム・ノワールの傑作である。私はこれを有線テレビで見たことがある。この作品の存在自体を知らなかったので、迂闊にも保存をしていない。しかしまあ、仕方ないか。 幻として存在する方が、映画には相応しいかもしれないからである。


幻の女 Phantom Lady

監督:ロバート・シオドマーク
キャスト:フランチョット・トーン、エラ・レインズ、アラン・カーティス
1944年/アメリカ/87分

妻と言い争ってアパートを飛び出したスコットはバーで奇妙な帽子の若い女と知り合う。名も名乗り合わずにショーを見物し、家に戻ると妻が絞殺されていた。 警察は彼を検挙し、彼は死刑の宣告を受ける。スコットの秘書キャロルは帽子の女さえ探し出せばアリバイが証明され、スコットは無罪になるはずと、各所を飛びまわって証拠集めを始めるが…。 BGMをほとんど使わないことで演出する強烈なサスペンス。


第八十七話 生き残り

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 隠された財宝を目指す男たちが次々に殺され、最後に残った一人も結局その財宝を手にすることはできない。そんなものは始めから存在しなかったからである。 ただ、つねに冷静に状況を認識し、またおのれの力の限界を知っている男だけが生き残るという、ある種の道徳的な教訓だけがそこに残される。 こういう男を演じられるのは、かつてはゲイリー・クーパーであり、グレゴリー・ペックであった。『悪の花園』(ヘンリー・ハサウェイ 1954)や『マッケンナの黄金』(J・リー・トンプソン 1969)は、作品の質はともかく、彼らの道徳的な存在感が際立っている。 冷静な男を見たいという観客の欲望によって、こういう映画は成り立っている。現実にはそんな男は存在しないが、かといって全くの空想というのでもなく、だからようするに理想なのだが、そういう理想像をみんな見たいわけである。 私の意見では、こういう存在感は演出というよりも役者の持ち味に依存しているはずである。したがって、下手な演出よりも、むしろ役者の存在を的確にとらえることが、ゲイリー・クーパーやグレゴリー・ペックのような役者を撮る際に要求される技術であるといわねばならない。 では、欲望と恐怖の情念にとらえられた仲間たちとは異なり、逆境で生き残る方法を冷静に認識する男という、アメリカ映画が得意とした人物像は、どんなふうに継承されているであろうか。『エイリアン』(リドリー・スコット1979)の物語は、貨物宇宙船が偶然向かった惑星で謎の生命体を発見したことから動き出す。 安全に地球に戻ることではなく、未知の生命体を持ち帰るという欲望が、すでに乗組員たちをとらえ、冷静な判断を狂わせ始める。特殊な身体組織をもつエイリアンが乗組員たちをひとりずつ殺していく場面が物語の見せ場である。 映画には、こういう状況でも冷静でいられる男がいなければならない。ところが、この作品には、そういう男は存在せず、そのかわりに女(シガニー・ウィーバー)が登場している。 愚かな野望によって男たちが死んでいく中で、臨機応変に生き残る可能性を見出すのは彼女だけである。 伝統的な宝探しのジャンルを変形し、冷静な女を主役に据えて、しかも西部劇をSFに置き換えたという、二重三重の発想の転換がこの作品を作り上げている。 こういう発想の中心にシガニー・ウィーバーという女優が位置していることは間違いないであろう。


エイリアン Alien

監督:リドリー・スコット
キャスト:トム・スケリット、シガニー・ウィーバー、ヴェロニカ・カートライト
1979年/アメリカ/118分

航行中の大型宇宙船の中で異星生物に襲われる恐怖と葛藤を描き、SFホラーの古典として知られる。 多くの続編やスピンオフが製作され、前日譚となる『プロメテウス』が2012年に公開された。エイリアンのデザインは、シュールリアリズムのデザイナー、H.R.ギーガーが担当。 リドリー・スコットの出世作であり、1980年のアカデミー賞で視覚効果賞を受賞。キャッチコピーは「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」。


第八十六話 Que sera sera

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ヒッチコックの『知りすぎていた男』(1956)は、さらわれた子供を救出することが物語の骨格になっている。 きっかけは人違いで、パリで開催された学会のついでに、足を伸ばしてモロッコ観光にやってきた米国人医師のジェームズ・スチュワートとドリス・デイ夫婦が一人息子をさらわれる。 暗殺組織の夫婦と間違われて諜報員に接触したことから、たまたま暗殺計画を知り、その口封じに組織が子供を誘拐するという設定である。 子供の生命を案じたジェームズ・スチュワート夫婦は、一件を警察に知らせず、独力で救出に乗り出す。子供が大使館に軟禁されていると見抜くと、晩餐会にもぐり込んで様子をうかがい、救出の機会を待つ。 ドリス・デイは、映画の中でも国際的な人気歌手の役で、晩餐会でも出番がやってくる。首相はじめ国賓級の来客の眼前で、ドリス・デイは「ケ・セラ・セラ」を歌い始める。 場違いにも、子供向きの唱歌のような歌である。無論、この歌を唄うのには理由がある。映画の冒頭、モロッコのホテルで子供に着替えをさせながら、母親と子供が二人で歌うのがこの曲である。 大使館のどこかにいるはずの子供に聴かせるために、ドリス・デイは声を張り上げてこの曲を歌う。そして、子供がそれに気づいたことが救出のきっかけとなる。 この間のヒッチコックの演出にはじつに抜かりがない。私は、この「ケ・セラ・セラ」のシーンを見て、アメリカ中の母親が涙したのではないかと想像する。 ところで、こういう筋書きの映画を私はもう一本見たことがある。ポランスキーの『フランティック』(1988)である。ハリソン・フォードがやはり米国人医師で、パリの学会に夫婦でやってくるが、空港でスーツケースを取り違えたことから密輸組織に狙われる。 誘拐されるのは妻で、子供ではないが、家族の救出劇であることにはかわりない。米国人の観光客を相手にしない大使館の職員やパリの警察に愛想をつかして、ハリソン・フォードは単独で行動に出る。 スーツケースの持ち主を探し当てると、信じ難いほどの美人で、しかも若い。ポランスキーの作品を見て楽しみなのはこういう点で抜かりがないことである。 この役を演じるエマニュエル・セイナーが素晴らしい。誘拐された夫人は帰ってくるが、エマニュエル・セイナーは死んでしまう。 子供ではなく、夫人を救出する物語に別の女の死を重ねるという、ポランスキーらしい濃厚な物語であった。ちなみに、ハリソン・フォードは歌いません。


知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much

監督:アルフレッド・ヒッチコック
キャスト:ジェームズ・スチュワート、ドリス・デイ    1956年/アメリカ/120分

モロッコへ観光にきていたマッケナ一家は、あるフランス人と昵懇になるが、彼は「アンブローズ・チャペル」という謎の言葉を残して暗殺され、同時に息子が誘拐されてしまう。 夫妻は息子の捜索を開始するが、やがて巨大な陰謀に飲み込まれていく…。 本作のオリジナル版「暗殺者の家」も名作であったが、ヒッチコックが後にトリュフォーに語ったところによると「オリジナル版は若干腕の立つアマチュアの作品」であり、本作は「実力を兼ね備えたプロの作品」としている。


第八十五話 ベルイマンのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロードムービーといえばアメリカ映画である。しかし、車で移動する物語をアメリカ映画が得意とするというのは、ちょっと考えてみると不思議である。 というのは、一般常識からすれば、米国の広い国土を車で移動する必然性は存在しないからである。むしろ飛行機を使うことが常識であり、理にかなっている。 それゆえ、ロードムービーの物語は、なぜ飛行機ではなくわざわざ車を使うのかという点を正当化しておかねばならない。『パリ、テキサス』(1984)ではハリー・ディーン・スタントンが飛行機を嫌がり、『レインマン』(1988)ではダスティン・ホフマンがやはり飛行機を嫌がる。 このように、飛行機で行けるのにわざわざ車で行くという点を正当化するには、登場人物の性格や気分によるのが常套手段となっている。 アメリカ映画でなくてもこの点は同じである。ベルイマンでさえ、ロードムービーを撮るとなるとこのやり方を採用しているほどである。 ベルイマンのロードムービーといえば『野いちご』(1957)である。初老の医師イサク(ヴィクトール・シューストレーム)は、名誉博士号の授賞式が執り行われる大学へ出向かなければならない。 年齢を考えれば、飛行機で行くべき距離であり、もちろんその予定であった。ところが、予定通りに飛行機で行かれてはロードムービーにならない。 それでベルイマンは老人の気まぐれによって車での旅を正当化するという手に出た。同行する女中はさっさと飛行機で行ってしまう。 息子の嫁(イングリッド・チューリン)が車に同乗する。途中、少年時代を過ごした場所に立ち寄って回想に耽ったり、ヒッチハイクの大学生たちを乗せたりしながら無事目的地に到着し、博士号を受け取って映画は終わる。 これだけの話がじつに面白いから映画は不思議である。ところで、私の説によると、ロードムービーには恋愛を描いてはならないという規則が存在する。 恋愛は移動を止めてしまうからである。したがって、車の旅の正当化と同時に、同乗者の選定が重要になる。 この規則を遵守するという観点からすれば、初老の医師とその息子の嫁という組み合わせにはあまり安定感がない。 ベルイマンの映画を知っている人には、この組み合わせは危険に見えるからである。相手がイングリッド・チューリンのようなエロ美人とあってはなおさらである。 しかし、この二人の間には何事も起こらず、映画はじつに円満に終了する。ベルイマンでもロードムービーとなると恋愛のことを忘れるらしい。


野いちご Smultronstället

監督・脚本:イングマール・ベルイマン
キャスト:ヴィクトール・シューストレーム、ビビ・アンデショーン、イングリッド・チューリン
1957年/スウェーデン/91分

『夏の夜は三たび微笑む』『第七の封印』の成功で国際的な名声を得たベルイマンが、人間の「死」や「老い」「家族」などの普遍的なテーマで描く代表作。 公開と同時に全世界で絶賛を浴び、第8回ベルリン国際映画祭金熊賞をはじめ多くの映画賞を受賞。 日本での人気も高く、1962年度のキネマ旬報外国語映画ベスト・テン第1位に選出された。


第八十四話 イーストウッドのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 イーストウッドといえば『ダーティハリー』ということになっているが、じつはロードムービーを一本撮っている。『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)という作品で、息子のカイル・イーストウッドとの共演である。 この映画では、イーストウッドはカントリー&ウェスタンの歌手だが、まだレコードを出していない。そのイーストウッドが車で姉夫婦の農家に帰ってくるところから映画は始まる。 その家で休養してから、イーストウッドはグランド・オールド・オープリーというカントリー&ウェスタンのオーディションへ出かける。歌手としては最後のチャンスである。 甥(カイル・イーストウッド)とじい様を連れての旅である。男三人の珍道中だが、途中でへんな女の子が強引についてくる。 ラジオ出演中の昔の仲間にあったり、借金を取り立てたり、飛び入りで演奏したりしながら、旅は進んでいく。私の説によれば、ロードムービーというのは車での移動が物語を作出すがゆえに、恋愛は注意深く避けられねばならない。 なぜなら恋愛は移動を止め、物語を停止させてしまうからである。それゆえ、男三人にあまり魅力のない女の子の四人連れというのは理にかなっている。 目的地へ到着するとすでにイーストウッドの結核が悪くなっている。レコード会社と契約してレコーディングを終えるとイーストウッドは死ぬことになる。 しかし、ロードムービーである以上、死によって映画が終わってはならない。ロードムービーのラストシーンは恋愛でなければならないのだ。 物語の上でそれまで禁じられていた恋愛で映画が終わることで、ロードムービーは構造的に一貫するからである。この観点から見ると、イーストウッドの埋葬の後で、甥と途中からついてきた女の子が二人で歩いていくところで映画を終わらせているのは、ロードムービーの規則に適ったラストシーンであるといえる。 しかし、このラストシーンが素晴らしいのは、物語の構造上の必然であるラストの恋愛が死と重ねられているからである。一人の中年男の死に若い二人の生が続くという、生命のサイクルを暗示するイメージによって映画は終わっていく。 二人の横を通り過ぎる車のラジオから、レコーディングされた叔父の曲『ホンキートンク・マン』が聴こえてくるのである。 イーストウッドは、ロードムービーの構造上の一貫性を保ちつつ、そこに詩的な意味をつけ加えたのである。


センチメンタル・アドベンチャー Honkytonk Man

監督・製作:クリント・イーストウッド
キャスト:クリント・イーストウッド、カイル・イーストウッド
1982年/アメリカ/122分

中年のカントリー歌手レッドは、C&Wの祭典グランド・オールド・オーブリーのオーディションに誘われ、甥のホイットを伴ってナッシュビルへ向かうが、道中はトラブルの連続。 ようやくたどり着いたオーディションで、レコード会社のオファーを受けるもレッドの体は末期の結核に侵されていて…。 地味な題材だけにロードショー公開もされなかったが、監督イーストウッドを語る上で避けては通れない一本。


第八十三話 制作者キャスリーン・ケネディ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1950年代、映画製作と配給とが法的に分離されたことによって、ハリウッドの撮影所システムは崩壊していく。 それ以前、映画会社が製作と配給を掌握していた時代には、制作者はつねに監督の上位に位置し、絶対的な権力を行使していた。 その制作者も、いまや監督の意向に耳を傾けざるをえない。今日、制作者と監督はパートナーの関係にあるのが一般的だが、始めからそうだったわけではないのだ。 とはいえ、スピルバーグやルーカスが映画界に入った70年代には、ザナックのような独裁者が撮影所に君臨した時代はすでに終わっている。 さて、スピルバーグの映画に欠かせないのがキャスリーン・ケネディという制作者である。最新作『リンカーン』がキャスリーン・ケネディ製作であることはいうまでもない。 この二人の協力は『E.T.』(1982)から始まっている。ロバート・ゼメキスが監督をまかされた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のシリーズ(1985,1989, 1990)では、二人はともに製作者の位置に立っている。 スピルバーグにとって、キャスリーン・ケネディのような制作者は、自分が撮りたい映画を思い通りに撮るためにぜひとも必要な管理者であるばかりでなく、自分が制作者になって優秀な監督に映画を撮らせる際の頼りになる共同管理者でもあるようなのだ。 例えば『ジュラシック・パーク』(1993)や『A.I.』(2001)は前者であり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などは後者である。 こういう作品の系列を見ていくと、キャスリーン・ケネディという制作者が得意とするジャンルが見えてくる。あくまで現実の世界をベースにしたサイエンス・フィクションの世界である。 ところが、そう考えるとキャスリーン・ケネディの作品としては異色の二本が眼に入らざるをえない。『マディソン郡の橋』(1995)と『ヒアアフター』(2010)である。 監督はクリント・イーストウッド、製作はイーストウッドとキャスリーン・ケネディで、イーストウッドのマルパソ・プロが現場を担当している。 無論、ここには事情がある。ロバート・ジェームズ・ウォーラーのベストセラー小説である『マディソン郡の橋』の映画化権を買い取ったスピルバーグは、その映画の監督・主演の話をイーストウッドに持ち込む。 この二人が親友であることは周知の事実である。その際、信用できる制作者としてキャスリーン・ケネディが紹介されたということである。 人脈で映画を見る、というのもたまにはやってみるものである。


マディソン郡の橋 The Bridges of Madison County

監督:クリント・イーストウッド 製作:クリント・イーストウッド、キャスリーン・ケネディ
キャスト:クリント・イーストウッド、メリル・ストリープ
1995年/アメリカ/134分

アイオワ州の片田舎で出会った、平凡な主婦と中年のカメラマンの4日間の恋を描く。 1965年の秋、ローズマンブリッジを撮りにやってきたカメラマン、ロバートは小さな農場の主婦フランチェスカと出会い恋に落ちる。そして永遠に心に残る4日間が始まる…。 撮影は、アイオワ州マディソン郡ウィンターセットに造られた特設セット『フランチェスカの家』にて、延べ42日間に渡って行われた。


第八十二話 アメリカ女優サリー・フィールド

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 スピルバーグの新作『リンカーン』で、ダニエル・デイ・ルイスが三度目のアカデミー賞を獲って話題になっている。 ところで、この作品でサリー・フィールドが久しぶりにスクリーンに登場するということも忘れてはならない。 ダニエル・デイ・ルイス演じるリンカーンの妻、メアリー・トッド・リンカーンの役である。サリー・フィールドといえば、じつはこれまで二度もアカデミー賞を獲っている女優である。 一度目が『ノーマ・レイ』(マーティン・リット 1979)で、これは南部の工場の話。二度目は『プレイス・イン・ザ・ハート』(ロバート・ベントン 1984)で、やはり南部の綿畑の話だった。 どちらも大都市ではなくスモール・タウンの話であるところが、古典的なアメリカ映画の感じを踏襲している。大ヒットになった『フォレスト・ガンプ/一期一会』(ロバート・ゼメキス 1994)ではフォレスト・ガンプ(トム・ハンクス)の母親役だったが、この親子が暮らすのもアラバマ州のスモール・タウンだった。 南部のスモール・タウンというのがサリー・フィールドという女優にはなぜかよく合っている。 『フォレスト・ガンプ/一期一会』のなかに私の好きなシーンがある。無論、フォレスト・ガンプがジョンソン大統領やニクソン大統領などと「共演」するシーンではない。 少年時代のフォレスト・ガンプは、精神と身体両方に障害を持っていた。長じて、卓球の選手として活躍し、また宗教的な権威にまでなっていくのだが、その少年時代のことで、母親に伴われて町に出かけるシーンがある。 親子が並んで舗道を歩いてくる所をキャメラがゆっくりと後退しながら撮っている。一目で障害があると分かる少年に人々の視線が集まる。 1950年代の米国である。ロバート・ゼメキス監督がこの時代の風俗を得意とするのはすでに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)で証明されている。 さて、私が好きなのは、息子に対する差別の視線を見て取った母親が、立ち止まって息子に話しかけるカットである。他人の眼など気にせず自分に誇りをもっていればいいという意味の台詞をいうのだが、視線は息子でなく周囲に向けられている。 差別の視線に対抗しながら息子に話しているわけである。こういう場面のサリー・フィールドの強い視線ほど素晴らしいものはない。 キャメラも移動を止めて固定になっている。大ヒットしたこの映画を見たアメリカじゅうの母親が、無意識に手本にしたに違いないカットである。


フォレスト・ガンプ/一期一会 Forrest Gump

監督:ロバート・ゼメキス
キャスト:トム・ハンクス、サリー・フィールド、ロビン・ライト
1994年/アメリカ/142分

人より知能指数は劣るが、純真な心と周囲の人々の協力を受けて数々の成功を収めていくフォレストの半生をアメリカの歴史を交えながら描いたヒューマンドラマ。 第67回アカデミー賞作品賞ならびに第52回ゴールデングローブ賞 ドラマ部門作品賞受賞作品。 "gump" はアラバマ州の方言で、「うすのろ」「間抜け」「愚か者」の意。 キャッチコピーは「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」


第八十一話 日本映画のキアロスタミ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

イランのアッバス・キアロスタミ監督がとうとう日本映画を撮ってしまった。『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)である。 キアロスタミの映画といえば車である。前作『トスカーナの贋作』(2010)と同様に、室内以外のカットはほとんど乗用車のなかでの会話で、この監督独特の構図の切り返しがたっぷり楽しめる。 しかし、楽しみはそれだけではない。『桜桃の味』(1997)では、まるでドキュメンタリーのようにリアルなこの映画が、じつは純然たる劇映画であることを示すラストシーンによって、リアルなものはキャメラによって構成されたものであるという逆説を観客は経験したのだった。 今回もそれがある。都内のトラットリア風の店内での会話から物語が始まる。女子大生同士の話し方である。ところが話している女子大生はキャメラのフレームには入っていない。 観客は映画が始まってしばらくしてからそれに気づく。それに気づくと、話している女子大生の明子(高梨臨)のカットにどういうタイミングでつなぐのかが気になり始める。 大勢の客が話す夜の店内で、明子の姿を見せずに、その声だけを明確に聴かせるというのはきわめて高度な技術である。録音は菊池信之である。 全編をとおして、菊池の録音が素晴らしい。デートクラブの紹介で明子を自室に呼んだ元大学教授の老人(奥野匠)は、明子の彼氏ノリアキ(加瀬亮)に自分の正体を偽り、明子の祖父であると告げる。 この嘘に気づいて逆上したノリアキは、この老人のマンションに押しかけ、部屋の前で怒鳴り声を上げ、ドアを蹴り、車を壊し始める。といっても、観客はそれらの音声を聴くだけである。 キャメラは部屋のなかにいる老人と明子を撮っているにすぎない。しかし、車が破壊される音を聴いて部屋のなかでうろたえる老人を見ていると、観客までが真の恐怖にとらえられる。 やばい男に関わってしまったという恐怖と後悔の混ざり合った心理的な状況をこれほどリアルに見せることはできない。ところが実際には、観客が聴いているのは録音技術によって構成された音声にすぎないのである。 そのことを、観客はマンションの窓ガラスが割られる最後のカットで「聴く」ことになる。わざとボリュームを上げた音声処理で、たんなる窓ガラスが割れた音とはとても思えない非現実的な音を観客に聴かせて、この映画は終わるのである。 リアルなものは構成されたものであるという映画の真理を、観客は逆説的に理解させられるのである。


ライク・サムワン・イン・ラブ Like Someone in Love

監督・脚本:アッバス・キアロスタミ  録音:菊池信之
キャスト:奥野匡、高梨臨、加瀬亮、でんでん、鈴木美保子
2012年/日本・フランス/109分

アッバス・キアロスタミ監督による、全編日本国内を舞台として撮影された日本映画で、第65回カンヌ国際映画祭コンペテイション部門正式招待作品。 元大学教授と、デートクラブで働く女子大生、女子大生の恋人である青年の3人を中心に愛を描く。 奥野匡は、84歳にして初の主演作となった。撮影にあたっては、キャストは毎日その日の分の台本しか渡されず、物語の結末も知らされないまま撮影を進めたという。